地域紹介:町屋の矜持(後編)

関東大震災後


関東大震災後は爆発的に人口が増え村から町へと変貌していきます。

昭和6年に京成電鉄町屋駅開業。住宅や町工場がひしめくように建っていきます。全国の鉛筆生産の大半は東京で、その中心が町屋でした。町屋は紙芝居作家や紙芝居画家が多く住んでいたと言います。

鉛筆工場

町工場の多い風景は昭和の町屋の典型的な風景だったといえることでしょう。昭和40~50年代に人気のあった巨人の星の、星飛雄馬一家が住んでいた家が町屋という設定をご存じの方も多いでしょう。

星家に届いた郵便物に荒川区町屋9丁目と書かれている場面があります。実際には無い住所ですが、星一徹がちゃぶ台をひっくり返したり、星飛雄馬が大リーグ養成ギプスを着けられていたのは町屋だったのです。

星飛馬の住所

 

千代田線開通からの変貌


昭和44年に地下鉄千代田線が開通すると、都電、京成線の乗換駅だった町屋の利便性は更に向上すると共に、商業地、住宅地としての価値が高まってゆきます。平成に入ってゆくとかつては町工場が建ち並んでいた風景が住宅やマンションに変わってゆきます。センター町屋、マークスタワーなどの再開発も進み、街の様相や人々のライフスタイルも変わりつつあると思います。

町屋付近にお住まいの建築家の方が仰った話ですが、町工場や伝統工芸、産業が廃れるに任せるのでは無く、稼働していない町工場を芸大の学生や芸術家の卵たちに格安に貸して、かつてはたくさんあった荒川区の自転車産業や家具産業とコラボして、技術力と創造性をプラスして付加価値のある製品を作り出し、産業の新たな発展、街の新しいカタチなどを模索してみるのも面白いかもしれません。

 





もんじゃと町屋


荒川区全体で「もんじゃ」はよく食べられているのですが、町屋にはもんじゃ屋さんがたくさんあります。
閉店してしまいましたが信八屋のように昭和30年代から脈々と営業を続けてきた店もありますし、駄菓子屋でも食べられてきて独特の文化があると思います。

月島は一つの通りに連続してもんじゃ屋さんがたくさんありますが、町屋はお店が散在しているのでもんじゃ屋さんがたくさんあることが知られていないので知名度がいま一つ上がっていきません。しかし、観光地としてのもんじゃではなく住民の生活に根付いたもんじゃ文化を多くの人に知ってもらうためにも町屋をもんじゃタウンとして盛り上げていきたいと思っていたりもします。

 

交通の要衝


町屋は3本の鉄道路線が交差する要所です。もっともっと商業が栄えても良いように思えますね。実際に美味しい店も多く集まっているのですが盛り場となるには発展していく余地が少ないように感じます。

交通の要衝

町屋の基幹となる道路としては両側2車線の尾竹橋通りと、都電沿いの道が比較的広く、通り沿いに商店が連なっています。しかしそれ以外は細い道が多く、路地が枝分かれのように分岐しています。これは町屋がムラからマチへ変貌するにあたって広い道や計画的なまちづくりが出来ずに今日に至ってきたことを意味しているのではないでしょうか。

かつては都市の周縁として斎場や下水処理施設、、、様々な施設が置かれた町屋周辺ですが、都市は瞬く間に拡大し、かつての周縁は都市の真ん中にあります。地理的にも荒川区の真ん中にあり交通の要所でもある町屋はもっと発展するための伸びしろを持っていると言えるでしょう。

町屋の人達は古くから受け継ぐ伝統や文化を矜持として街を更なる発展に導いて欲しいと思っています。

町屋についてはまだまだ書いていこうと思っていますが年内はとりあえずここまで。1月の記事で町屋の良い所を紹介していきたいと思っています。

皆様、それでは良いお年を。来年も宜しくお願い致します。

町屋の矜持(前編)はこちら

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