ぶっちゃけ自慢しちゃっていいんです南千住 歴史編(後編 その1)

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3. 明治から昭和にかけて工業が大発展。


3-1. 水利を活かして大工場が進出

千住南組、通新町、三ノ輪村、地方橋場村をベースに下谷区千束町、三河島村の一部を加えて南千住町は発足しました。この南千住ですが水の利の便が良い所だったので大工場が進出します。

隅田川が近くを流れているために、工業用水の取得に事欠くことなく、トラックだのトレーラーなどの無い時代の大量輸送手段としては船が利用されていました。石炭がエネルギーの花形をつとめていた頃は常磐方面の炭鉱の石炭をさばくべく、隅田川貨物駅が開設され、常磐方面の石炭を列車で隅田川貨物駅まで運び、そこから船で各地に輸送していました。

明治の南千住はまだ市街地化が進んでいなかったので、土地も安価で、工業用水も豊富、船による大量輸送も可能と言うことで大規模な工場が進出しています。

最も有名なものでは千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)という羊毛の毛織物を作る工場。ここは日本の羊毛工業発祥の地となり日本の繊維、被服産業の発展に大きく貢献しました。日本板紙という工場は、板紙(ダンボール) を初めて工場生産し流通に乗せたということで日本の板紙発祥の地となりました。

それまで一般的であった木箱とは違い、軽くて丈夫で、折りたたみもできる。包装や物の運搬、貯蔵に欠かせない必需品が日本中に広まったということは重要なことです。

今の南千住第二中学の辺りにあった東京電燈が建設した千住火力発電所は、火力発電所としては全国で初めて、蒸気機関ではなく蒸気タービンを導入した画期的な施設で、東京市内に電気を送り帝都東京の発展に寄与しました。大正6年に廃止され、後に対岸の足立区に同名の発電所が作られますが、それが有名なオバケ煙突の発電所です。

汐入界隈ではニチボウ、カネボウ、白髭橋あたりではランドマークになっているガスタンクのある東京ガスも明治時代に進出したものです。

こうして大小の規模の工場が増えていき日本の近代化に貢献しました。南千住には日本の羊毛工業発祥の地、板紙発祥など近代産業の発祥の地となっていますが、他にも東京漫才発祥の地というものがあります。こちらはまた別項で書こうと思います。

3-2. 工業地から住宅地へと変遷する南千住

南千住町は昭和7年に三河島、日暮里、尾久町と合併して荒川区になります。

工業地として日本の近代化を担ってきた南千住ですが、戦後は産業形態が変わって工業地から住宅地に変化して行きます。

千住製絨所は戦後、大和毛織に変わり、その後は東京スタジアムになります(FC東京のスタジアムではありません)。ここは、毎日大映オリオンズ(大毎、後のロッテ)のホームグラウンドとして、木造家屋が密集する下町の中で、メジャーリーグのボールパークをモデルとした最新の施設でした。ナイターのときは低層の建物の中で一段と光り輝く姿が光のスタジアムと形容されていました。余談ですが、関東で初めてカップラーメンが販売されたのもここだそうです。

セリーグ人気で観客動員が低迷して昭和47年から使用されなくなり、昭和51年にはスタンドが解体されました。祖母の家がこの前にあったのでここでスイカ割りをしたり、ボーリング場があったような記憶があります。東京スタジアムの跡地は、金メダリスト北島康介選手が練習したプールや野球のグランドなどのある荒川スポーツセンターや、南千住警察署になっています。

東京板紙は製紙会社の集合離散の変遷を受け、千住製紙→十条製紙などを経て日本大昭和板紙となりました。その工場の跡地は、1992年に高級マンション群の走りとして建てられたアクロシティになりました。汐入には大日本紡績(ニチボウ、現・ユニチカ)と鐘淵紡績(カネボウ)の大工場がありましたが、再開発によって汐入公園やマンション群に生まれ変わりました。

東京スタジアム

 

後編その2に続く→

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