地域紹介「日暮里」いろいろあるぜ日暮里!

今月も荒川区に住むうえで知っておいた方が良い暗黙の掟、「荒川区のオキテ」の一環として荒川区を構成する5つの地域を紹介する地域紹介シリーズ。前回は三河島(荒川区荒川)を紹介しましたが、今回は日暮里を紹介します。





日暮里ってどんな所でしょう

 

荒川区内には「日暮里」「西日暮里」と山手線の駅が2駅もあるのに、荒川区から来たというと、同じ都内の人に「わざわざ遠くからお越し頂いて」と言われてしまう、、、荒川という名前から想像するイメージなのでしょうけど?

海外旅行に行くときには成田空港を利用しますが、JRより早くて安い京成スカイライナーを利用する人も多いと思います。始発終着駅の京成上野駅はJR上野駅と少し離れているので日暮里駅を利用する人が多いのです。荒川区の玄関口というだけではなく世界への玄関口ともいえるでしょう。

日暮里駅
日暮里駅

日暮里は洋服の生地などを扱う繊維問屋街で有名ですが再開発前は駄菓子の問屋街としても有名でした。江戸時代は高台からの景色が美しく、夕景、花見、月見、雪見、虫の音を聞くなど文人墨客が集った景勝地でした。

散歩のメッカ谷根千の玄関口。夕やけだんだんも荒川区。個性的な店主で有名なザクロも荒川区なのです。谷中銀座も途中まで荒川区です。台東区谷中とは道路一本隔てているだけなのでわかりづらいのですが、後藤の飴とか元気メンチカツの肉のスズキは荒川区、谷中メンチの肉のサトーは台東区。谷中銀座に至るまでも、お蕎麦で有名な川むらや佃煮の中野屋は荒川区。手焼きせんべいの谷中煎餅や有名パティシエのショコラ専門店、ショコラティエイナムラショウゾウは台東区。まあどちらでもいいのですけどね(笑)。

全国的に有名な谷中生姜の原産地だった
全国的に有名な谷中生姜の原産地だった

日本一、東大合格率の高い天才、秀才が集う開成高校がある。江戸時代からの老舗羽二重団子や、日本で初めてジーンズを販売した企業エドウィンの本拠地でもあります。

エドウィン本社
エドウィン本社

こんな日暮里ですが、現在は東日暮里、西日暮里と分かれています。南は鶯谷、北は田端、東は三河島、三ノ輪と広い範囲になっています。まずは歴史から日暮里を見てみましょう

現在の行政地名である荒川区西日暮里、東日暮里ですが荒川区になる前は北豊島郡日暮里町。この日暮里町は町制を施行する前は日暮里村でした。それ以前は新堀村、谷中本村、金杉村、三河島村の一部などから成り立ちました。

日暮里古地図
日暮里古地図

まず日暮里の地名の由来ですが元々は新堀村という名称でした。太田道灌の臣で新堀某という者が居たので名付けられたという説もありますが、室町時代に「にっほり妙円」という地名を苗字にしたと思われる豪族が居たのでその説は正しくないと言えます。アイヌ語説(アイヌ語で山という意味のヌプリから来た)もありますが諸説あってハッキリ分かりません。

新堀村は現在でいうと日暮里駅前から西日暮里方面にかけての地域で、今の概念で言うところの日暮里と比べるとかなり狭い範囲です。この新堀村の高台は見晴らしが良く景勝の地でした。四季折々の花を愛でたり、月を眺めたり、秋には虫の音に聴き入り、冬には雪の風情を楽しむ。富士山のみならず筑波山などの名山も見えたことでしょう。そんな美しい風景の土地柄だったので文人墨客も多く集まり、風景に見惚れて一日が過ぎていくのも気付かぬほどだということで、日暮(ひぐらし) の里と呼ばれ、新堀に日暮里の字を当てるようになりました。現在では高台の足下を鉄道が走り、遠望してもビルばかりの風景になってしまいましたが。谷根千に連なる寺社群の風情は健在です。高台は太田道灌が砦を築いたという伝承から道灌山、日暮里、谷中の鎮守の諏方神社があるので諏訪台とも呼ばれています

景勝地にっぽり
景勝地にっぽり

日暮里駅前から西日暮里方面にかけての低地は谷中本村でした。ここは全国的にも有名な谷中生姜の原産地です。居酒屋で「谷中」というと谷中生姜が出てくるお店もありますね。谷中というと高台の上の台東区谷中をイメージするでしょうが、高台の上は生姜の産地とはならず、高台の麓、崖から清冽な湧水が湧き、音無川の水にも恵まれた場所が生姜の栽培に適していました。谷中生姜とは台東区の産物ではなく荒川区の産物であったのです。

全国的に有名な谷中生姜の原産地だった
全国的に有名な谷中生姜の原産地だった

収穫時期がお盆の頃と重なるので、谷中のお坊さんが檀家回りの手土産に葉ショウガを利用したところ、筋が無くて辛くないということで評判になった。特に柔らかい生姜なので種を残すことが出来ず、種ショウガは埼玉県北足立郡の川口辺りから取り寄せられたと言います。谷中本村は栽培に適していたようで、隣の三河島村で栽培されたものは谷中本村のものに比べて筋があったそうです。明治16年に鉄道が敷かれたことによって主産地が尾久村方面に移り、明治40年には荒川流域の岩淵、志村に移った。また江戸川区の小岩、鹿本、瑞江でも葉ショウガが栽培された。現在は市街地化により静岡県や埼玉県、千葉県で生産されている。

現在の住居表示「西日暮里」の大半は新堀村、谷中本村と三河島村の一部でした。では「東日暮里」はどうなのかというと金杉村でした。この金杉村は現在の荒川区東日暮里と台東区根岸が村域でした。その名残として台東区根岸には金曾木小学校があります。明治に入って東京市が市制を施行する際に、金杉村の南側は市街地化していたので東京市下谷区に編入されたのですが、音無川によって分けられていた北側の部分は市街地化が進んでなかったので北豊島郡日暮里町に編入されました。金杉村は二分割されたことになります。下谷区に編入された金杉村は後の台東区根岸になりました。日暮里町に編入された方は日暮里町金杉、荒川区日暮里町1~4丁目を経て東日暮里になっています。また現在の荒川区荒川と東日暮里は常磐線の線路によって分けられていますが、常磐線の無い頃は三河島町と日暮里町の境界は入り組んでました。その後の行政区画の変更によって常磐線が境界となって旧三河島町の一部が東日暮里に編入されています。

西日暮里の道灌山、諏訪台が景勝地として有名ですが、東日暮里から根岸にかけては音無川の流れる景勝地で呉竹の里と呼ばれていました。寛永寺の住職、輪王寺宮(代々、皇族が就任する)の別邸、隠棲所だった御隠殿と呼ばれるお屋敷があったり、江戸の豪商の別邸が多くあった場所でもあります。江戸時代からの老舗、羽二重団子は明治の文豪たちも訪れ俳人の正岡子規、洋画家の中村不折も住み、明治の外交官陸奥宗光の別邸があり、昭和の爆笑王と呼ばれた林家三平も住んでいました。

太古の日暮里は低地は海でした。現在の開成学園のある高台には縄文、弥生時代の道灌山遺跡や夕やけだんだんの辺りの延命院貝塚などが発掘されていて古くから人が住んでいたことがわかります。室町時代には高台に太田道灌が砦を築いたので道灌山と呼ばれるようになりました。しかしこれには一説もあって、土地の豪族、関道閑の館があったので「どうかん山」と呼ばれたのが太田道灌に混同されたとも言われています。私はどちらも正しいと思っています。関道閑の館も太田道灌の砦も存在したと考えています。上野から諏方神社の前を通って豊島郡衙のあった西ヶ原、王子、岩淵へ抜ける道は江戸時代以前からの古道です。太田道灌の築いた江戸城、稲付城、岩付城を結ぶルート上にあるので太田道灌が出城を築いた可能性は非常に高いと思います

江戸時代は先述したとおり道灌山、諏訪台が景勝地で歌川(安藤)広重、長谷川雪旦、月岡芳年に描かれ、文人墨客が集いました。江戸市民が日帰りでレクリエーションに訪れる観光地でもありました。道灌山での虫聴き、薬草採取、諏方神社からのかわらけ投げ(厄除けや願いを込めて素焼きの土器や酒器などを高い所から投げる)の流行、月見、雪見、花見、谷中七福神めぐりや江戸六地蔵のある浄光寺があり、江戸六阿弥陀を巡る阿弥陀道が通っていました。低地は谷中生姜や三河島菜が栽培される江戸近郊農村でした。

西日暮里は谷中と同じ諏方神社を鎮守としています。東日暮里は根岸と同じ元三島神社を鎮守としているように日暮里は現在の台東区との結びつきが強い地域でもありました。東京市ができた時は日暮里は下谷区に組み込まれることも検討されたのですが、最終的には音無川を境界として東京府下の北豊島郡日暮里町になって、後に周辺の町と合併し荒川区になりました。

荒川区境を形成する音無川って何だろうと思った方もいると思います。音無川とは小平市を水源として王子で隅田川に合流する石神井川から分水した用水です。王子駅の手前、音無親水公園や音無橋の辺りから分水し、日暮里駅前ぐらいまでは現在の京浜東北線に沿って流れ、日暮里駅から先は曲折しながら東に向かって三ノ輪で思川と分かれて山谷堀と名を変え隅田川に流れ込んでいました。別名は石神井用水。日暮里と台東区の区境が妙にクネクネしてるのは川の跡だからです音無川は暗渠となって道路になっています。

前回の三河島編でも書いたのですが、現在の荒川区域というのは江戸、東京の周縁で都市と農村部の境界でもあったのです。江戸や東京市が発展していくと、街には必要だが市街地には置いておけないものが周縁へ移されていくのです。江戸浅草には浅草紙という再生紙の一大産業がありました。この再生紙を作るために市中から要らなくなった古紙や屑紙を収集する人達がいました。明治に入り、東京市が近代化していく過程で、古紙や古布、廃品回収をする人や業者は行政指導や、規制の強化により東京市内から東京市外、東京府下の日暮里町に移転してきました。近くの王子には日本で最初の洋紙生産を行った抄紙会社(のちの王子製紙)があったので明治時代の紙幣、印紙、証券紙、新聞発行のために古紙の膨大な需要があった。やがて日暮里も東京市の膨張により、東京市内に含まれると、廃品回収業者、古紙業者の多くは新たな周縁を求めて昭和初期に足立区本木に移転していきました。現在でも日暮里にゴムやタイヤ、古紙、廃品回収の業者などがところどころに見受けられるのはその名残である。使用した布、端切れなどの繊維類は工業が発展する過程においてウエスなどの加工、再利用で需要が逼迫した。繊維ウエイストを扱う業者が増えていく過程で、様々な繊維業者も移転してきて日暮里の繊維問屋街が形成されるのだが、現在は紳士・婦人服地や綿・プリント・合繊維物、ボタンなどの付属品を販売する専門店となって多くの女性客で賑わっている。農村地帯であった日暮里の低地は大正末期には工業地となり都市化して農業は無くなっていた。

繊維問屋街
繊維問屋街

日本一東大合格率の高い開成学園のある西日暮里の辺りは秋田藩主佐竹家の抱屋敷があったところです。渡辺銀行当主、渡辺治衛門による開発が大正初期に行われ、600坪のひぐらし公園に桜並木、上下水道、ガス、電話を完備した高級住宅地で理想都市ともいわれた渡辺町があった。作家の野上弥生子などの文化人が住み、開成学園も移転してきたが、昭和2年の金融恐慌で渡辺銀行は破綻。さらに戦災によって美しい町並みは焼失してしまった。いまでも一部整然とした街並みが残っていたり、文化の香り高い雰囲気があるのはその名残です。

第二次世界大戦後の昭和23年頃から甘いものを扱う露店が日暮里駅前に集まり始めた。多くの路線の分岐点で交通の要衝であったことから物資と人が集まりやすいということで発展。やがて日暮里の露店は上野のアメ横、錦糸町と並んで駄菓子の問屋街となって行きました。最盛期には地方からも買い付けに多くの人が訪れたそうです。小売りもしていたので私も買いに行ったことがあるので思い返すと懐かしいです。駅前再開発で三棟の高層ビルが建ち、駄菓子問屋街は追い出されるような形で立ち退き、現在は再開発ビルの中に2軒残るのみになってしまった。防災や駅前の整備など必要なのでしょうけど、日暮里の名所でもあり風情があったので残念でなりません。

駄菓子屋横丁
駄菓子屋横丁

西日暮里駅は昔からあるように思われがちですが、山手線で最も新しい駅です。と言っても昭和44年に開設されたのですけどね。地下鉄千代田線の開通に伴って乗換駅として開設されたのです。今となっては荒川区民として西日暮里駅が無い姿は想像がつきませんけどね。西日暮里~日暮里は500mでJRでも最も駅間距離が短い区間の一つになっています。

西日暮里駅
西日暮里駅

日暮里にある企業ですがエドウィンは日本で初めてジーンズを販売した企業。もともとはアメリカからジーンズを輸入販売していたのですが、日本で初めてジーンズを製造し販売した企業です。本社は東日暮里3丁目、旗艦店のエドウィンデニムギャラクシーは駅前の再開発ビルの中にあります。社名の由来も面白く、デニム(DENIM)の「D」と「E」を逆転し、「NIM」を180度反転し「WIN」として命名した。という「江戸」が「勝つ」(WIN)という説もあるのですが、デニム逆転説が有力なようです。

また西日暮里にはシステムキッチンなどの住宅機器大手メーカーのクリナップの本社があります。調理台、ガス台、流し台の三点セットを野球のクリーンナップに喩えたシステムキッチン「クリーンナップトリオ」がヒットしたことから商標になり、後に社名にもなったそうです。

日暮里は町工場や家内産業、自営業が多く職住接近の環境が長く続いたのですが、再開発やマンションが増えて街も変わりつつあります。近代都市住宅を目指して建設された同潤会アパートが日暮里には2つありました。同潤会アパートとは震災復興を目的として設立された財団法人で、各地に先進的な設備や設計の鉄筋コンクリートの集合住宅を建てていった。近代日本で最初期の鉄筋コンクリート造集合住宅として住宅史・文化史上、貴重な存在であったがそのほとんどが取り壊されている。有名なものとしては表参道ヒルズになった同潤会青山アパートメントや、代官山アドレスになった同潤会代官山アパートメントがあります。日暮里には鶯谷アパートメントが1999年、三ノ輪アパートメントが2009年に解体されました。また、先述したとおり駄菓子問屋街などがあった場所にはステーションポート、プラザ、ガーデンタワーの3棟の高層マンションになっています。高層、中層マンションはさらに増えていますね。人も街も変化していくことでしょう。

日暮里駅前ステーションガーデンタワー
日暮里駅前ステーションガーデンタワー

私は三河島に家を購入して三河島の住民になっていますが、それ以前は東日暮里に20年住んでいました。日暮里は非常に思い入れが強い場所なのです。日暮里の今後がどのようになって行くか関心を持っていると共に日暮里が暮らしやすい、多くの人に好感を持ってもらえる街になるようなまちづくりや、外国人が日本文化に触れる玄関口にできないかと考ています。これからも日暮里に関わって暮らしていきたいですね。賛同いただける方がおりましたら共にいろいろな活動をしていきたいです。

次号は3月号ということで目前に迫った桜の開花に合わせて荒川区のおススメお花見スポット(荒川区民なら当然、荒川区で花見でしょう?)&日暮里のおすすめスポットを書こうと思っていますので楽しみにしてくださいませ。

1件のコメント


  1. 拝見しました。
    日暮里で産湯につかり、独り立ちする迄根岸で過ごした者にとってはとても興味深い内容だと思います。
    物心ついた時から駄菓子屋問屋街のど真ん中で育ったので、当時の風景が脳裏を駆け巡りました。
    日暮里駅前は空が狭くなって寂しい気持ちです。
    子供の頃は噴水も有り開放感が有り落ち着ける雰囲気でした。
    消防署が有る場所はバスの営業所が有りましたね。
    その斜向かいには千葉屋さん、職人さんがうなぎやどじょうをさばいている所を良く見ました。
    あれから半世紀以上経ちますが、今でもその光景が浮かびます。
    素敵な記事を読んで幸せな気持ちになりました。
    ありがとうございました。
    これからも活動を続けて頂ける事を期待しております。

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