ぶっちゃけ自慢しちゃっていいんです南千住 歴史編(後編 その2)

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4. 汐入地区


4-1. 汐入の発展

汐入について書こうと思います。

汐入村は上杉謙信の家臣であった高田氏が戦に敗れ、汐入の地に落ち延びてきて開拓して始まった村だと伝えられています。江戸時代は汐入大根などの農業、隅田川の湾曲部分にあるため胡粉(貝殻を砕いた白い顔料で日本画や日本人形に使用された)の産地である小さな村でした。後に地方橋場村、南千住町の小字となって地名は消えたのですが隅田川と隅田川貨物駅に囲まれ、戦災の被害も少なく、昔ながらの街の様相を残していました。

明治に入ってからは大日本紡績(ニチボウ、現・ユニチカ)と鐘淵紡績(カネボウ)の二大工場や日本石油油槽所ができ工業の町として多くの人が働いていました。昭和40年代後半にはこれらの工場は移転し、東京都による再開発の計画が決まってゆきました。

昭和60年代ぐらいから計画は実働していき、戦災にも焼かれることが無かった下町風景は取り壊されてゆき、街は一から造り直されて高層マンションが林立する地域に変貌しました。

4-2. 汐入大根

汐入の名産として知られる江戸野菜の一つに「汐入大根」があります。江戸時代の汐入は農村でした。隅田川の西岸地域で川の蛇行が東に大きくうねった地域で、かつては洪水の常襲地域で上流からの肥沃な土砂の沖積地で作物が良くできた所でもあったのです。

そこで栽培されていたダイコンは、土地の名前をとって「汐入ダイコン」と呼ばれていて、それが「二年子(にねんご)ダイコン」です。この「二年子ダイコン」、抽台が遅いことから秋にタネを播いて年を越して2~3月に収穫できると云うものでした。小ぶりで先にいくにつれて細くなり、生で食べると皮のまわりはほのかに辛く、芯の部分には甘みがあります。

このダイコン、「辛味ダイコン」と云うことで、ダイコンおろしなどにして、搗きたての餅に絡めて、「辛味餅」として食べられたり、蕎麦の薬味に使われたりと、その利用方法は、辛味として限られたものだったのです。現在は汐入地区の小学校や小平の農家で栽培しています。

4-3. 歴史のある汐入

新しい街、新しい住民の多い汐入ですが、ニュータウンではありません。もともとあった街の上に新しい街を塗り替えただけなので伝統があります。新住民の汐入で生まれる子供たちのためにも汐入の歴史やアイデンティティをもっと知ってもらう必要があるかもしれません。

胡録神社や胡粉のこと、汐入大根のこと、また、再開発前には汐入村名主だった高田氏の邸宅が100年以上前の木造住宅で存在していました。毎年隅田川が氾濫するので中二階にのがれられるようになっていて、船がつりさげられる構造になっているなど当地の特色を残したもので、解体保存されているので汐入地区に再現できれば歴史を語るものとして面白いと思っています。

自営業が多く職住近接の元々の南千住住民と、区外に通勤する割合の高い新住民とでは価値観の違いがあるように思えます。新しい価値観を受け入れさらに新しいものを生み出していく土壌を作ってゆくことも必要ですし、荒川区に住みながら仕事も遊びも区外で過ごすのではなく、地元の行事に参加したり、地元を知ることも大事だと思っています。そこで新しい南千住住民意識や荒川区民意識が生まれると良いな。

 

5. 南千住歴史編、まとめ


江戸時代には江戸と郊外の接点であった南千住。一部は町奉行支配の江戸市域、一部は千住宿に連なり、さらに一部は農村地域もありました。

明治時代からは一気に工業地帯化し、戦後は大工場は移転して住宅地化していき、現代は都心に近く新たなライフスタイルを提案できる街としても見直されつつあると思います。

こんな南千住は江戸時代は言うに及ばず中世以前からの交通の要衝であったことや、1000年以上の歴史ある古社がいくつもあり、二天棒で神輿を振る東京屈指の勇壮な祭を伝えていたり、近代工業など様々な発祥地であったり。南千住って何があるのって?聞かれたら思いきり自慢できることばかりあると思います。胸を張って大いに自慢しちゃいましょう。

次号では南千住のいいとこ、名所をご案内したいと思います。

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