荒川の江戸野菜「三河島菜」(コミカレ生寄稿)

※この記事は、荒川コミュニティ・カレッジ(通称コミカレ)の授業の一環として、現役コミカレ生から寄稿いただいた記事となります。

(記者:川嶋信さん)


私達が住んでいる荒川区は、野菜の近郷生産地として江戸の人口を支えていました。一説には百万人を超えたと言われています。

日暮里地区の「谷中生姜」は、現在まで各地で栽培されています。畑で大量に生産されていたのです。南千住には「汐入大根」があり、江戸湾に影響を受け、カルシュム・ミネラルを多く含んだ土壌で育ちます。現在の三浦大根に近いと推擦されます。

本題に入りますが、「三河島菜」はご存知ですか?

名の由来、何故消滅してしまったのかなど、具体的資料が発見されてないので、一部私案とさせていただき紹介させていただきます。

第一章:名の由来


この大地は、荒川を中心として水路があり、谷中、田端につらなる「はけ」※1の低地側です。また一方は、荒川の流れに沿って広がっている10.2平方キロメートルの区域です。

荒川・町屋は昭和七年荒川区成立以前は三河島町でした。近隣には、九校の小学校がありましたが、その校章がすべて三河島菜をモチーフにしたもので、よく見ると少しずつ異なり個性があるのです。

谷中・汐入・三河島。江戸時代の地名がすなわち現在の荒川区の旧名であり、数多く出回った地産野菜に使われた名称なのです。

第二章:三河島菜の誕生


大胆な仮説を提唱してみます。

1603年、徳川家康が江戸入府し、開拓が起こります。三代家光のとき、参勤交代始まり人口増加、副食としの野菜増産が急務となり、生産効率の低い京菜に対し、風味を生かし生産性を高める為に油菜、菜の花を掛け合わせ、新しい菜、葉も大きく、幹も太く、大きく育つ(60㎝以上)、味も近く塩付保存が大量にできる野菜へと改良されます。それが三河島菜だと思われます。

第三章:三河島での生産の終了


日露戦争終結、大陸から兵隊が帰国し、中国東北部から白菜の種を持ち帰り導入します。

関東大震災発生・住宅建設・農地消滅で当地では完全に幻の野菜となりました。

第四章:近隣種の発見


同じような油菜科に属するものが、日本全国にある事が、近年判明しました。

仙台藩にあった芭蕉菜が、現在同一の菜とされています。

時代を遡ると、慶長年間に安芸国(広島県)の領主、戦国武将で有名な福島正則が、参勤交代の折り、地元観音寺村人を江戸へ同道させ、その帰路京都本願寺にて後の広島菜の種を手に入れたとされています。それが今日の三大菜、広島菜の始まりとの説が記録から有力とされています。

三河菜の最大のエピソードとしては、宮地にある観音寺※2で将軍が三河島菜を食し、美味と絶賛された逸話があります。鶴を狩り、三河島菜とともに京都朝廷へ献上しています。

第五章:復活へ


愛知県の一地方に餅菜があり、神奈川には大山菜があります。

関西方面からもたらされた可能もあります。解明が必要です。江戸時代、伊勢参りとして村の代表が伊勢へ向かう道中、各地域の技術・道具類または作物の種など、各自に持ち帰り生活の向上に役立てていました。この事実からすると良い物は必ずどこかで生き残っているように思えてなりません。

今こそ、東京に残っている様々な江戸野菜を東京に残っている農家に生産流通してもらい、地産地消を目指したいものです。

注1「はけ」
・例「国分寺のはけの道」。関東、東北地方のみ、丘陵山地の片岸 峡田(高台に挟まれた田畑)

注2「観音寺」
・1532年創建。八代将軍以降正式な「鷹狩り御膳所」

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