尾久と歩んだ103年の歴史。未来へ向かう割烹熱海の今を記録する。

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小台の割烹熱海。
大正6年に創業。割烹旅館として始まった103年の歴史に、今年、一旦幕を下ろします。
この日、取材のために店を訪れると、お店を懐かしむたくさんの人達が玄関前で写真を撮影していました。

社長の根岸昌彦さんは三代目。
17歳で板前を志し、この世界に飛び込んで50年。老舗の看板を守ってきました。

断腸の思いで店の看板を下ろす直接的なきっかけになったのはやはりコロナウイルス。
割烹熱海といえば大小の素晴らしい宴会場ですが、宴会需要の急減によりお店は大きな打撃を蒙ります。
ただ、後継者問題もあり、実は2年前ほどからすでにお店の業態転換は考えていたのだといいます。

「私は現在67歳です。この地に生まれて小さな子どものころから、料理人となって、この店を継ぐという心構えでずっと過ごしてきました。その覚悟があったから今まで続いたのですが、やはり大変な思いをすることは様々にありました。」

数々の困難を乗り越えてきた自分だからこそ、その大変な思いを次の世代に無理やり背負わせるようなことはしたくない。そう考え、5年計画で70歳になるタイミングで割烹の看板は下ろすことを決断されていたそうです。
コロナによってそのタイミングが少し早まりました。

 

貴重なアルバムと共に振り返る、関東大震災、東京大空襲を乗り越えてきた103年の歴史


熱海の103年の歴史。
その歴史を伝える貴重な写真アルバムを社長に持ってきてもらいました。
東京大空襲で跡形もなくなった焼け野原の中で、一つだけ残った奇跡のアルバムです。

1冊だけ残った貴重なアルバムを手に。

割烹熱海の創業者は根岸要之助という人物。
大正2年に現在の都電荒川線(当時は王子電車)が開通したのをきっかけに、尾久を伊豆熱海温泉のような歓楽街にしようと壮大な夢を抱いたのが始まりです。

根岸要之助は歌舞伎にも傾倒。公演を開催し、自ら主役を演じるほど。

彼は温泉を掘り、大正6年には割烹旅館熱海を開業。更に芸妓組合も設立して初代組合長となり、尾久三業(旅館、芸妓、待合)と呼ばれる一大遊興地へと発展させます。まさに、この街そのものを作り上げていった人物の一人と言えるでしょう。

往時の店前。この写真は出征兵士を送る人々の送別会が行われた時の様子のようです。時代を感じます。

その後、根岸要之助は昭和7年に38歳という若さで亡くなりますが、割烹熱海と同じ年に創業した旭電化工業(現在のADEKA)を一番の得意先に店は大繁盛を遂げます。

最盛期には多くの芸妓や仲居さんがいました

当初の建物は関東大震災で全壊するも負けずに復興。2000坪の敷地の真ん中に遊覧船が浮く300坪の池を持ち、そのまわりを建坪800坪の廻廊式の平屋が取り囲むという豪壮な大料亭となりました。

300坪の池には屋形船を浮かべて遊べるようになっていました。

この料亭は陸軍大将東条英機も度々訪れるなど多くの陸軍関係者や政界の著名人も訪れ、当時の繁盛ぶりに「小台の渡しに 旭がのぼり 熱海繁盛で 日が暮れる」という旭電化工業と熱海を掛けた都々逸が唄われるほどだったと言います。

現在は無い戌亥門。朝帰りの客などはこちらの裏門から帰宅したのだとか。

しかし残念ながら当時の大料亭は第二次世界大戦の東京大空襲で消失。
焼け野原となった尾久の町に、戦役から復員した先代の根岸昌平と結婚した先代女将の根岸澄子が割烹熱海を復興させ、現在に至ります。

 

親子3代のお客様も。地元に支えられて103年。


「この店は戦前からのお客様がたくさんいるんです。その一つ一つが何よりも印象深いです。」と語る根岸さん。

熱海で結婚式を挙げたお客様が、子どもが生まれ、お食い初めを行う。子どもが成長し、七五三や成人式を行う。大人になって結婚したら結納を行う。嫁いだ先で子どもが生まれ、また熱海でお食い初めをする。ご当主が亡くなられたら、熱海でお清め、一周忌を執り行う。
熱海にはそんな、親子3代で使っていただいているようなお客様がたくさんいます。

「そういうお客様に熱海は支えられてるんですよ、ということをずっと祖母に教えられて育ってきました。都電の停留所が一つあるだけのような場所ですから、通り一遍のお客様はそうそう来ないんです。本当に地元に支えられてきたお店です。」

 

重厚華麗なお座敷、調度品の数々。
数多くの歴史を刻んだ割烹熱海の今を記録する。


今の割烹熱海の姿を残したい。そう伝えると、社長が館内を案内してくれました。

重厚な大広間。
荒川区随一の広さを誇る座敷です。

床の間には虎の掛け軸。
気分が上がりますね。

それぞれの広間で畳や天井の模様が異なります。
どれも壮麗で見事なものです。

各所にある絵画。

こちらは別のお座敷。
読者の方の中には、ご自身も参加された宴会の記憶が蘇る方もいるのではないでしょうか。

館内の廻廊を渡り、増築した建物に行くと数寄屋造りの部屋。

こちらは一寸の狂いもなく斜めに交差して組まれている秋田杉の格子障子など、熱海の中でも最高級の造作を凝らした部屋になります。

洞床(ほらどこ)を持つこちらの部屋。
世を忍ぶ重要な会食なども開かれたかもしれませんね。

宴会で使う様々な食器などを納めた部屋も。
一つ一つに熱海でのひとときを楽しんだ歴代のお客様の記憶が残っていそうです。

玄関入り口には五福招来の文字が。

 

大きな試練を乗り越えて。老舗の名を残す大きな決断。


「幸いにしてこの建物は頑丈な躯体です。延床面積も400坪ほどあります。そこはスケルトンにして商業施設や医療関係などにお貸ししていこうかと考えています。敗業ではなく前向きに業態転換、としていきたいと考えてます。」

鉄筋コンクリート4階建ての熱海。

そう語る社長。2020年にコロナが拡大し始めたのはちょうど宴会需要が最も大きくなる12月1月ごろ。
急減する売上に何度も家族会議も重ねてきたと言います。

「一番苦しかったのは、4月に1ヶ月間の休業を決めたときです。何もすることがなく一時は呆然としました。夏までには良くなるんじゃないかというような声もありましたが、このままでは気持ちが持たないと思いました。」

コロナ禍で一気に未来に向けて動き出したと根岸さん

割烹熱海は2021年の年明けの七草明けに常連さんなどに閉店をお知らせ。
すると多くの方からなんとかならないのか、名前は残せないのか、といった反響がありました。
それらの声を聞いた社長は、1月末に大きな決断をします。

「仮にテナントが入っていただいても自分は家で何をしていればいいんだろう、と思い始めました。折角これだけの広さがあるので、今のガレージあたりの30坪を改装し、割烹熱海の名前を残して営業することにしました。私一人が板前としてもてなすつもりです。宴会などは出来ないのですが1日10人ぐらいのお客様を、私が直におもてなしする場所にするつもりです。」

熱海の名前を残す決断をしました。

すぐには出来ないですが、テナントも決まって軌道に乗ったら始めようと思います。
遅くとも年内には割烹熱海 旬花亭を再開できると思います。
こう言う社長の姿はどこか晴れ晴れとして見えました。

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