「奥の細道」矢立の地は荒川区 〜 (俳句の区)の論争に関する考察(コミカレ生寄稿)

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※この記事は、荒川コミュニティ・カレッジ(通称コミカレ)の授業の一環として、現役コミカレ生から寄稿いただいた記事となります。

(記者:村田榮さん)


「奥の細道」には、元禄2年(1690年)3月27日の早朝、深川の杉山杉風(さんぷう)の別荘(深川六間掘西側)から、見送りの弟子たちと共に、舟に乗り千住と云うところで、舟から上がったと記されています。そして、その日の内に埼玉県の春日部に到着しています。

その間に、かの有名な矢立の句「行春や 鳥啼 魚の目は泪」が詠まれたのですが、この矢立の地が大川(以下、隅田川)の東西どちらの岸なのかで長年論争が交わされています。

ただし、出発地が深川の六間堀西側(杉風の別荘)ということは記述からも明白です。この別荘の出入り口の舟着き場については、次のことより、隅田川の西岸であるとかんがえられます。

舟の航路を考えてみると、六間掘を出て隅田川に入り、上流(千住)に向かって漕ぎ出してゆくことになるのですが、わざわざ、隅田川を横切って東岸に沿って舟を進めることは考えにくいです。したがって、西岸に沿って南千住の大橋の袂(たもと)の船着き場を利用したと考える方が合理的です。

また、文中、「富士の峰も幽(かすか)に見えて、ああ、上野・谷中の花云々」と隅田川より西方にみえるものを記しています。東方にも筑波山等の絶景が見られるはずですが、それらの記述は一切ありません。このことからも今回の長旅は隅田川の西岸からの出発を決意したものだと推測されます。

さらに、「鳥啼き云々」と詠んでいますが、この鳥が何であるかを考えてみると、季節がら都鳥(鴎の一種、渡り鳥、春先(今の季節荒川でもよく見られる))であると推測できます。当時の人々が都(江戸)と認識していたのは、隅田川を挟んで西側でした。ここにも芭蕉が都を離れる心情が偲ばれます。

最後に、旅立ちには川(大橋)を渡ってこそ(西岸)、旅ゆく人と見送る人の情景が絵になりますので、渡りきったところ(東岸)では全く不興なものとなります。

以上の観点を鑑みると、「奥の細道」の矢立の句が詠まれた場所は、荒川区南千住大川西詰め(素盞雄神社付近)で、弟子たちとの別離に際し詠まれた俳句であると考えるのが妥当と思われます。

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