入学式もまだだというのに、小さな子どもたちが大きなランドセルに背負われるようにして表の路地を走っていく。春から始まる小学校生活が待ち遠しいのだろう。ランドセルは小学生の証とも言える、特別なかばんである。
梅田皮革工芸は、小学校生活を終えたランドセルからミニランドセルを作る、寺岡孝子さんが一人で営む工房だ。ミニランドセルだけを作り続けて今年で14年目になる。
ミニランドセルとの出会いは浅草のかばん屋だった。事務職に退屈していた寺岡さんは、友人が見せてくれた雑誌でかばん屋の存在を知る。面白そうなかばん屋だと店舗を訪ねたところ偶然求人があり、応募した結果あれよあれよという間に入社することになった。 かばん作りに対して、特別な知識もなければ経験もない。任されるのは事務か多少の手伝い程度だろうと思っていた。しかし任されたのはかばん作りそのもの。変な癖がついていないほうが飲み込みが早い、と未経験者しか雇っていなかったのだ。98年に入社して11年間、かばん作りの技術を一から教わった。
普段は材料を仕入れてオリジナルのかばんを作るが、春になると季節もののサービスとしてミニランドセル製造も請け負っていた。何しろ材料費がかからず、集客にもなる。しかし寺岡さんの目にはそのミニランドセルがとても愛おしいものに映った。小学生の頃の記憶が一瞬にして蘇った。
「今思うと小学生の頃が一番幸せだった気がしますよね。勉強もそんなに難しくなかったし(笑)、家族もまだみんな若くて、おじいちゃんおばあちゃんも元気で……ランドセルを見ると当時を思い出します」。子どもの頃から大好きだったランドセル。歳を重ねるにつれ、また違った思いが積み重なっていく。
みるみる魅力に引き込まれていった寺岡さんは「ミニランドセルを自分でも作ってみたい」と思い立ち、かばん屋に勤める傍ら梅田皮革工芸を立ち上げた。幸い、社長も「いいじゃん、やりなよ」と背中を押してくれた。
寺岡さんの作るミニランドセルは「本当に」ミニランドセルだ。横の金具も小さなパーツも全部外して可能な限りそのまま使う。使い古した汚れや傷がそのまま残るので、自分のランドセルがそのまま小さくなったかのような錯覚に陥る。特に、縁革(へりがわ)をそのまま同じ位置に使う技術は他社のミニランドセル製造ではみられないこだわりだ。ミシンなら2、3分で済むところを30分かけて手で縫う。「元の縫い目を再現したほうが可愛さが断然違うんです」と寺岡さんは力説する。
「でもそのこだわりが注文してきた人になかなか伝わらなくて。どうやったら伝わるかな、って考えてるんですけどね」少し寂しそうに話す寺岡さんだが、6年間共にした金具や傷が持つ記憶は代用品には補えない。家族には伝わらなくても、本人にはしっかり伝わっているような気がする。
前職では数名で分業していたこともあり3ヶ月で1000個を捌いていたが、今は1日かけても1個しか作ることができない。よくこんな面倒な作業をこなせるな、と前職の社長には呆れられたが、寺岡さんは「その面倒くさいところがいいんですよ」と笑う。「最初から最後まで全部自分でできるのは楽しいです」
現在30〜40個の注文を一手に引き受けている寺岡さん。実は荒川区内での注文はあまり多くないという。テレビや新聞に取り上げられたり、また近年はインターネットの影響もあって日本全国から注文が寄せられる。ランドセルに詰まった思い出を残しておきたいというニーズは高く、また完成品を受け取った家族からの喜びと感謝の声も途絶えることがない。
毎年3月下旬から4月に最盛期を迎えるが、近頃は卒業直後のものだけではなく数年経ったランドセルが送られてくることも多い。「この時期になるとみんな思い出すのかな。でも作るなら早めに注文してください、ってお願いしています」
縁革やベルトに使われる合皮は経年劣化が激しく、2〜3年で表面が剥がれやすくなる。ミニランドセル作りでは製作過程で曲げたり負荷を与えることが多いので、出来上がりがボロボロになってしまう可能性があるのだ。「それでもいいですか、とお客様に確認した上で作ります。他に使えそうな部分で補ったり、なるべく工夫しますけど」と寺岡さんは語る。一つ一つのランドセルと向き合い、手作りをしているからこそできることだ。
今はミニランドセル・ミニバッグの製造だけを請け負っているが、水面下では「ランドセル作りキット」なるものを開発中だという。フタ部分などの各パーツと専用の針と糸をパッケージ化して、最後の組み立て作業を家族でやるというもの。材料の確保や作り方のガイドをどうするかが目下の悩みだが、意気込みは十分だ。
そしてゆくゆくは「実店舗を持ちたい」と語る寺岡さん。注文が徐々に増えてきて、自宅の作業場も手狭になってきた。共に働いていたこともある夫、そして2人の娘と一緒に「作っている様子が見える店」を開くことが夢だ。
「生まれ育った荒川区で面白いお店をやりたいです」
語弊を恐れず言えば、気持ちの赴くままに歩んできた寺岡さんだからこそできる仕事。だがそれが愛情のこもった唯一無二のミニランドセルを生み続ける秘訣でもある。寺岡さんは「直感で生きてるんで」とはにかんだ。
今年もまた、梅田皮革工芸に傷だらけのランドセルが届く季節がやってきた。