地域のことを知ることは荒川区のオキテとしては当たり前のこと?三河島(荒川)、日暮里と続いた地域紹介。第三弾は南千住です。7月号と8月号に渡って続けてお届けします。
荒川区民以外からは足立区の一部だと思われることもある南千住。南千住?何かあったっけ?なんてことを言う人達に南千住について自慢するためにも、南千住について掘り下げていろいろと考えてみましょう。
1. 「南千住」という名前の由来
1-1. 元は足立区側の地名
そもそも何で南千住という名前なんでしょう?
千住は元々、足立区側の地名です。新井図書頭政勝が室町時代に荒川で網にかかった千手観音を勝専寺に納めたからとか、室町幕府8代将軍で銀閣寺を建てた足利義政の愛妾千寿の出身地であったからとか諸説あります。足立区側は千住と呼ばれていたのが分かったと思います。
1-2. 荒川区側の地名は?
では荒川区側は何と呼ばれていたのでしょう?
皆さんも聞いたことがあると思いますが「小塚原」(こづかっばら)です。これも古い地名で由来は諸説あります。1200年の歴史を誇る素盞雄(すさのお)神社創建の歴史と絡んでいます。
修験道を創設した役の小角(えんのおずぬ)のお弟子さんであった黒珍の住居に小高い塚がありました。その塚にスサノオ大神とアスカ大神という二人の神様が現れたといいます。ここに現れた二人の神様を祀ったのが素盞雄神社で、神様が降臨した奇岩を「瑞光石」と言います。南千住地区の小学校が全て「瑞光」という名前を冠しているのは、この故事が由来です(三河島地区の小学校は峡田を冠し、日暮里地区は日暮里を冠します。尾久だけは個々の地名の小学校名ですね)。そして、神が降臨した塚から「小塚原」の地名が起こったと言います(古塚ともいう。別説では円通寺に源義家が奥州で得た首を埋めた塚を古塚といいそこから小塚原の地名が起こったという)小塚原の方が千住より古い地名かもしれません。
南千住から素盞雄神社に向かう道をコツ通りと言いますが、よく刑場跡で骨が出たからコツ通りという人が居るのですが、小塚原から「コツ」という名が出たというのが定説のようです。小塚原は素盞雄神社の歴史と共に1200年もの歴史を刻んでいる場所でもあるのです。
小塚原村と並んで中村ができ、やがて小塚原町、中村町と呼ばれるようになりました。南千住7丁目に山王社、日枝神社がありますが、そこが元の中村町の鎮守様でした。
1-3. 江戸時代 〜 千住宿の整備
徳川家康が江戸に入り、千住大橋を架け五街道を整備し、日光道中、奥州道中の最初の宿場町として千住宿が整備されました。その千住宿も年々栄えて、江戸四宿最大の町になって行きます。
拡大した千住宿は本宿、新宿、南宿と3つの宿場から構成されるようになるのですが、千住宿は千住大橋を越えて小塚原町、中村町まで拡がりを見せたのでした。小塚原町、中村町は通称で千住南宿、後に千住南組と呼ばれる千住宿の一部となったのですがあくまで通称でした。明治に入ってから小塚原町と中村町が合併して千住南組が正式な名称となりました。
この時に足立区側の千住本宿が千住北組という地名になったので、千住北組=北千住、千住南組=南千住の由来が出来たのです。
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