荒川区の夏祭り – 諏方神社

尾久八幡神社に続き諏方神社について書こうと思います。

平成27年8月27日(木 大祭式のみ)、29日(土)、30日(日)に例大祭が行われます。今年は本祭ではありませんが例年のごとく境内、参道には百軒の露店が所狭しと並びます。諏方神社のプロフィールから書いていきましょう。

まず皆さんが疑問に思うことはなぜ「諏訪神社」じゃなくて「諏方神社」なのだろうということです。諏方神社のルーツは鎌倉時代の元久2(1202)年にこの付近を収めていた豪族、豊島左衛門尉経泰が信州の諏訪神社(現在は諏訪大社)を勧請してきたものです。諏方の表記はどこから来たのかというと、「諏訪」の古い表記が「諏方」だったのです。律令制で日本は行政区分としていくつもの国に分かれました(東京なら武蔵国、神奈川なら相模国とか)長野県は信濃国ですが、10年間という短期間でしたが「諏方国」という律令国もありました。本家長野県の諏訪神社(諏訪大社)も諏方神社と書かれていた時期もあり諏訪の古い表記が諏方なのです

日暮里の諏方神社は昔ながらの表記を踏襲しているのです。よく諏方神社と書くのは日暮里だけだという人がいますが、数少なくなりましたが全国で見れば諏方神社と表記する神社があります。また「諏訪台中学」「諏訪台通り」と書くのが間違いではないかという人もいますが、表記方法が昔ながらか、現代風かの違いで間違いではないと思います。

諏方神社の祭神は建御名方命です。この神様はどういう神様なのでしょう。

日本の神様は日本にもとからいた土着の神である国津神と、高天原から天孫降臨した天津神に分類されます。6月に素盞雄神社の記事を書きましたが、その時に名前が出てきた、スサノオ、大国主、事代主という神様は国津神です。国譲り神話では高天原の神々に国を譲ることを迫られたスサノオの子である大国主は自分の子である事代主に判断を委ねます。事代主は国を譲ることを承諾しますが、大国主は納得しなかったのか、更に自分の子である建御名方が判断すると答えます。そこで国津神の建御名方神と天津神の建御雷神が力比べをします(実際には戦闘が行われたのでしょう)敗れた建御名方神は諏訪湖のほとりまで追い詰められ、諏訪から出ないという約束のもとに命を救われ諏訪神社の祭神となったという話です。軍神としても知られ農耕神、狩猟神でもあり、風を司る神とも言われています。

軍神としても知られる建御名方神を武家である豊島氏は尊崇していたので諏方神社を勧請したのでしょう。豊島氏は同族の江戸氏、葛西氏と共に源頼朝に協力した功で鎌倉御家人に列し、江戸の城北方面に勢力を伸ばしていきます。室町時代には平塚城(上中里の平塚神社)を本拠に練馬城(現としまえん)石神井城(現石神井公園)などを持ち一族が各地に割拠していました。しかし、関東管領(室町幕府の職制で関東を管轄する鎌倉公方の補佐役)扇谷上杉氏の家宰である太田氏が江戸で急激に勢力を拡大し対立関係となる。関東の混乱を機に自立しようとした豊島氏に対して、太田道灌は豊島氏を攻撃し、江古田、沼袋原の合戦において豊島氏を破り、平塚、練馬、石神井城を落として豊島氏は滅びました。豊島氏が滅んだ後も太田道灌は諏方神社を手厚く祀り、神社のある高台には豊島国衙、岩付、河越への街道も通っていることから砦を築いたので高台は道灌山と呼ばれるようになりました

江戸時代は徳川家光が5石の朱印を与えています。寬永12(1635)年、社殿を現在地に遷座。新堀(日暮里)、谷中村の総鎮守として尊崇されるようになります。

境内地は景勝地として知られ、江戸名所図会や多くの錦絵にも描かれ、ひぐらしの里と呼ばれ多くの文人墨客を集めました。隣接する浄光寺は雪の景色が美しいことで雪見寺と呼ばれました。現在はビルが立ち並んで眺望が失われてしまったものの反対側の富士見坂からは富士見坂からは富士山が眺望できます。諏方神社からは厄よけなどの願いを掛けて高い場所から皿などを投げる土器投(かわらけなげ)の遊びが盛んに行われました。いまJRが走っている崖下は江戸時代には割れた皿がたくさんあったのかもしれませんね

氏子町域が台東区と荒川区にまたがっていますが江戸時代には台東区も荒川区もありませんので関係ありません。氏子町域は台東区側16町会、日暮里側9町会の25町会。荒川区側は西日暮里のほぼ全域と東日暮里のごく一部。元の新堀村と谷中本村の範囲です。

今は日暮里というと西日暮里、東日暮里を含めかなり広い範囲なのですが、東日暮里はもともとは金杉村という別な村で今は台東区である根岸と同じ村でした。本来の新堀村というのは日暮里、西日暮里の高台を含む狭いエリアでした。また谷中村が高台にあるのに対し、谷中本村は低地にあり、谷中生姜の産地は高台の上でなく低地の現在は荒川区である谷中本村の地域にあったのです。住居表示が西日暮里でも、三河島方面、新三河島駅周辺の辺りはもともと三河島村だったので素盞雄神社の氏子町域となっています。

諏方神社の本社神輿は江戸時代の嘉永3(1850)年に作られたもので宮出しは二天棒で担ぎ出し、延命院門前で四天棒に組み立てられ谷中から日暮里と担がれていきます。文化年間(1804~1818年)に疫病払いに作られた山車が戦災にも焼けず残ったが現在、早稲田大学演劇博物館に保存されています。

諏方神社の御利益は勝利祈願。困難な状況でも戦いを挑んだ建御名方命の武神としての性格を反映しています。また建御名方命は八坂刀売神との間に13柱もの御子神を生んでいるので子授けの利益があり、更に恋愛成就や縁結びといった側面も持っています。建御名方命は水や風を司る神とされ(元寇の神風は建御名方命がおこしたと言われた)狩猟や農業など豊かな恵みを与えると言われました。そこから転じて商売繁盛の神様ともされています。

夏に行われる祭事は元来は農作業の労働を労う、疫病封じる、死者を弔うことを目的としたものが多いです。脈々と受け継がれてきた地域の伝統を守り受け継いでいくためにもお祭りにはぜひ足を延ばしてもらいたいですね。お祭りの熱気と迫力を肌で感じ取って暑い夏を乗り切ってゆきましょう

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