荒川区の夏祭り:尾久八幡神社

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東京の下町には夏を感じさせる風物詩がいくつもあります。荒川区に近いところだと入谷の朝顔市、浅草のほおずき市、足立や隅田川の花火大会・・・これらを過ぎていくと梅雨が明け夏真っ盛りという気分になると思います。

荒川区に氏子町域を持つ神社の祭礼は5~6月と8月に分かれます。素盞雄神社、元三島神社、石浜神社などは5~6月。諏方神社、尾久八幡神社は8月です。日暮里や尾久の方々は8月に入りお祭りが近づいてくるとそわそわと気になってくるのではないでしょうか?今回はそんなお諏方様や八幡様のお祭りについて書きたいと思います。

8月1日(土)2日(日)は尾久八幡神社のお祭りです。本祭りは4年に1度なので来年ですね。

尾久八幡神社は言わずと知れた尾久の総鎮守です。江戸時代は上尾久村、下尾久村、船方村の鎮守様でした。その起源は不明ではありますが、八幡様に伝わる最古の棟札には至徳二年(1385年)と記されていることから南北朝時代には創建されていたことがわかります。正和元年(1312)に、尾久周辺が鶴岡八幡宮に寄進された頃に勧請されたのではないかと推測されています。鎌倉時代に起源がある古社ですね。

明治22年に上尾久村、下尾久村、船方村の一部(大半は王子村へ合併)が合併してできた尾久村、やがて町制を施行して尾久町の鎮守となりました。その氏子町域は旧尾久町の範囲なので現在の西尾久、東尾久全域のみならず江川堀より北側の地域、町屋5丁目、4~7丁目も昔は尾久町だったので尾久八幡神社の氏子町域でした。

祭神は応神天皇。なぜ応神天皇かというと、八幡神社のルーツは大分県宇佐市にある宇佐八幡でここから八幡神社が全国に広がりました。宇佐八幡の神様は土地の豪族宇佐氏の氏神である八幡神がのちに応神天皇が習合し、八幡宮の主神は応神天皇とされるようになりました。平安時代になると武家の尊敬を集め、特に清和源氏は氏神として各地に八幡神社を勧請しました。奥州征伐で荒川区内にも足跡を残している源義家は京都の石清水八幡宮で元服しているので八幡太郎義家と名乗りました。源氏との結びつきが強い八幡神社でしたので、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、鎌倉の守護神として鶴岡八幡宮が置かれました。鎌倉時代には尾久は鶴岡八幡宮の所領となるので尾久八幡神社が勧請されたのであろうと推測されます。神社の周りには八幡堀が隅田川まで巡らされ下肥の積み下ろしや交易で賑わったそうです。明治以降、温泉が出て尾久が三業地としてにぎわった頃は八幡様もにぎわったことでしょう。

祭神となった応神天皇とはどのような人物だったのでしょう。新羅に出陣した神功皇后の子で第15代天皇。実在を有力視されている。河内国(大阪府)に本拠を置いたことから河内王朝の始祖ともみなされます。皇室は125代続いていると言われますが、初代神武天皇~14代仲哀天皇、15代応神天皇~25代武烈天皇まで続き、26代継体天皇~125代今上天皇までの3つの王朝に分かれるという説があります。諸説あるのですが応神天皇は一つの体制を切り開いたリーダーであったことは間違いなさそうです。彼の時代に中国や朝鮮半島から多くの技術者集団を受け入れ国力が大いに発展し、日本文化の基礎が作られたと伝わっています。

尾久八幡神社の御利益とはどのようなものでしょう。八幡様は武家に信奉されていることから武神としての勝負事や、八幡神社は応神天皇と共に比売神、応神天皇の母である神功皇后も祀られることが多く、女神であることから子授け、子育て、安産、縁結びの御利益もあると言いますし、厄除、病気平癒、家運隆昌などの御利益があるとされています。余談ですが八幡神社の大元のルーツである宇佐八幡は天平勝宝元(749)年に東大寺の大仏が完成したときの開眼法要に、宇佐八幡の八幡神とお供の女禰宜が乗った紫の輿が、神霊をのせる神輿の起源となったといいます。全国各地にあるお神輿のルーツは八幡様にあったようです。

来年の8月第1土曜日午後3時から6時まで、昭和5年に作られ大振りの延軒屋根、5段の龍頭の桝組を持つ台座3尺2寸の神社神輿が渡御します。翌日の日曜日には午前8時半から神幸行列が出発し神輿は鳳車に乗せられて氏子町内を巡幸し、午後6時に還御します。神社神輿は、本祭りの2年後、いわゆる中祭りといわれる年にも出御するが神幸行列は催されません。

都電電停の宮ノ前は八幡様の前にあるから宮ノ前。お隣の熊野前は過去に熊野神社があったからです。今年は陰といいながらも町会神輿は出ますし、夏の暑さを吹き飛ばすためにもお祭りに参加してみてはいかがでしょうか?

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