地域紹介:尾竹橋通り東側(町屋1,7,8丁目)

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荒川区のキホンシリーズ。荒川区をよく知って地域に誇りを持ってほしい。そんな思いを込めてこのシリーズを書いています。「町屋の矜持」ということで町屋の歴史や未来予測について書いてきていますが、1月に名所編を書いて2月、3月とお休みを頂きました。満を持して?続きを書きました。

前回は、「町屋」と言いつつ住所的には「荒川」だが町屋文化圏ともいえる町屋駅~宮地交差点方面について書きました。今回は住居表示「町屋」の尾竹橋通り東側、町屋1.7.8丁目を紹介させて頂きます。
 

・都電町屋駅前停留所から荒木田方面へ


都電の町屋駅前停留所を出て尾竹橋通りを荒木田方面に進みましょう。一本目の道を右手に曲がるともんじゃの「立花」があります。ここは塩もんじゃ、ホルモンもんじゃなどオリジナルのもんじゃがいろいろあって美味しいです。

焼場の通りを右折して右手にあるのが「川ばた」は中華も甘味も食べられます。更に進んで「ダンドリオン」フランス語でタンポポという意味。荒川区には少ない?フレンチのお店。その先の右手には銭湯の竹の湯。たまには内風呂だけでなく銭湯も良いかもしれませんよ。

その向かい側には「町屋斎場」があります。この町屋斎場ですが実は歴史が古く江戸時代からの歴史があるのです。江戸時代には南千住に小塚原刑場があり、火葬場があったのですが、その歴史を受け継いでいます。もともとは三つ塚と呼ばれた微高地のあった場所に明治22年、小塚原の火葬場と、日暮里に開業していた博善社の火葬場が合併移転してきて現在に至っています。中に入ると町屋斎場の歴史の説明や、昔の火葬場の門柱、日暮里時代の碑などを見ることができます。森鴎外、石川啄木、渥美清、君島一郎などの著名人が火葬にされたのもここです。

斎場から路地に入っていくと「ヤマナカ食品」戦前から続く昔ながらの製法でこんにゃくを作っています。バケツこんにゃくでも有名ですね。路地を進めば「村井桐箪笥」は東京都と荒川区の伝統工芸継承者となっています。尾竹橋通りに向かっていく途中にあるのが「どじょっこ」店名にあるどじょうだけではなくナマズやクジラも食べることができます。尾竹橋通りに出たところにある「三忠」は昼飲みもできますね。

 

・尾竹橋通りを北上。千代の湯、正泰苑方面へ。


そのまま尾竹橋通りを北上すると右手の路地の奥に古めかしい建物が見えるのは銭湯の千代の湯。昔ながらの銭湯造り。その先の裏手には一本松の小公園があります。昔は小高い丘の上に松があったので一本松と呼ばれたようです。今は当時の松は無く江戸時代の庚申塔が建っています。以前は松栄寺というお寺もありましたが廃寺になりました。この一本松が町屋村と三河島村の境界だったところで、今は町屋1丁目となっている所も昔は三河島村だったようです。

尾竹橋通りから少し中に入ると焼肉の名店「正泰苑」があります。都内でも五指に入ると言われ、焼肉のグルメランキング常連店。上ロースが有名だが中ロースは生でも食べられると言います。

尾竹橋通りに戻って荒木田の交差点を過ぎた先の路地に橋の親柱のようなものが残っています。これは正真正銘、橋の跡で以前は江川堀という用水路が流れていました。この江川堀が古来の町屋と尾久の境界で、ここから先の町屋5,6,7丁目の一部は昔は尾久だったのです。ですので町屋は素盞雄神社の氏子ながら、この地域は尾久八幡神社の氏子となります

 

・尾竹橋から隅田川沿いに町屋方面へ戻る


尾竹橋通りをどんどん進んでいけば尾竹橋に至ります。これを渡れば足立区千住桜木になります。尾竹橋の名前の由来をご存知でしょうか?尾久と竹ノ塚を結ぶから尾竹橋通りで尾竹橋というのではないかという人も居ますが違います。江戸時代にこの地に隅田川を渡る渡し船があり、三軒の茶屋があったそうです。この茶屋に「おたけ」さんという飛び切り美人がいて有名になり、この渡し船が茶屋の渡し、おたけの渡しと呼ばれたそうです。昭和9年に尾竹橋が架橋される際に「おたけの渡し」に因んで尾竹橋と名付けられたそうです。後世にまで名前を残す美人はどんな方だったのか見てみたい気もしますね。現在の橋は平成4年にかけ替えられたものです。

尾竹橋通りから路地に入っていきましょう。光明寺は第一峡田小学校前にあったお寺が昭和15年に移転したものです。更に進んでいくとどん詰まりになって隅田川に面した尾竹橋公園があります。カミソリ堤防建設中にできた堀を造成してできた公園でダイオキシンで閉鎖になったこともありますが拡張する予定です。この辺りは隅田川が大きく湾曲するところで船の難所でもあり、雑木林があって「槇の屋」と呼ばれていた。「槇の屋のおぢ」と呼ばれた大蛇伝説も残っています。

ここから隅田川沿いに町屋駅方面に戻っていきます。カミソリ堤防に阻まれ隅田川が全然見えませんが、もともとは「荒木田の原」と呼ばれた桜草、スミレやレンゲが咲き乱れる美しい土地で江戸名所図会にも描かれたところです。荒木田土は良質の壁土として知られ、江戸野菜の荒木田大根が採れる所としても知られていました。荒木田大根は汐入大根と同じく抽台が遅いことから秋にタネを播いて年を越して2~3月に収穫できると云うもの。小ぶりで先にいくにつれて細くなり、生で食べると皮のまわりはほのかに辛く、芯の部分には甘みがあります。このダイコン「辛味ダイコン」と云うことで、ダイコンおろしなどにして、搗きたての餅に絡めて、「辛味餅」として食べられたり、蕎麦の薬味に使われたりと、その利用方法は、辛味として限られたものだったそうです。

七峡小の先に「土地区画整理記念碑」という碑が建っていますが、これは昭和10年に建てられ、文字は西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳が揮毫したものと思われる。またこの場所には隅田川の一本松の渡しがあったと言われますがカミソリ堤防のせいでその面影は感じられません。五中のあるあたりは榛の木山と呼ばれ、小さな池が無数にあり、昭和の初期には魚を取ったり、タガメを捕まえたそうです。今や昔、その面影は全くなくなってしまいました。

今回は尾竹橋通りの東側を紹介しました。次回は「町屋」の尾竹橋通り西側、町屋2,3,4,5,6丁目尾紹介したいと思います。

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