ぶっちゃけ自慢しちゃっていいんです南千住 歴史編(前編 その2)

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2. 明治維新、そして現在の南千住の成立へ

 

廃藩置県では豊島郡であった荒川区域は東京府に、足立郡であった足立区域は小菅県になりました。千住宿は小菅県になったのですが、千住南組も千住宿だということで一時、小菅県に編入されたのですが、同年中に東京府、小菅県、品川県と合併して新しい東京府となり、東京府北豊島郡千住南組となりました。

明治22年には千住南組の大部分(一部は三河島村へ),地方橋場町の大部分、三ノ輪村の大部分、下谷区通新町と、下谷区三ノ輪町の飛び地、下谷区(千束)町の一部、三河島村の一部が合併して南千住町になりました。従来の町村の境界を無視した合併で南千住町は生まれました。これが今の南千住の大まかな形となっています。南千住と一口に言ってもいろいろな町が統合されてできたものです。

小塚原町と中村町が千住宿に組み込まれ千住南組となって南千住になった話を書きました。その他の町はどうでしょう?

2-1. 通新町


まず通新町(とおりしんまち)です。現在の日光街道は国道4号線となって大関横丁から千住大橋に向かっています。しかし昔の日光街道はこの道ではありませんでした。江戸時代の日光街道はコツ通りの方です。なのでコツ通りに面した現在の回向院のある場所に刑場が置かれたのです。街道を通る人たちに罪人を見せしめにするためですね。

今の国道4号線は何だったのかというと「下谷道」という上野方面に向かう幹線道路でした。この下谷道の両側にできた町を「通新町」と言います。江戸時代には町奉行の支配下にあり、江戸の町の末端にありました。

明治に入り周辺の町を統合して新たに東京市下谷区の通新町となりました。南千住の国道4号沿いはいち早く東京市に組み込まれていたのですが、後に北豊島郡南千住町に編入統合されました。

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2-2. 三ノ輪村


次に三ノ輪村ですが、三ノ輪って台東区の地名じゃないの?という方がおります。行政地名としての三ノ輪が台東区に残っているというだけで、元々は台東区と荒川区にまたがった一つの村でした。

太古にはここまで海が入り込み入り江となっていたので、水の際から三ノ輪になったという説があります。三ノ輪村は下谷道(現在の国道4号線) 沿いに成立した通新町を両側から挟み込むように存在していました。現在の住所で言えば荒川区東日暮里、南千住、台東区三ノ輪です。明治の市町村の再編成は旧来の領域を無視した形で行われたので一つの村が別々に分かれて他の町村と合併することになることも多かったのです。

三ノ輪村は下谷区に組み込まれ、東京市下谷区三ノ輪町になった部分と、郡部のままの三ノ輪村に分かれました。明治22年の再編では三ノ輪村のほぼ全域と、下谷区三ノ輪町の飛び地などが千住南組などと合併して南千住町になりました。その合併の残った部分が今の台東区三ノ輪に当たります。台東区には地下鉄三ノ輪駅、荒川区には都電三ノ輪橋駅がありますが、もともとは両区にまたがった地名なのです。 

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2-3. 地方橋場町


地方橋場町(じかたはしばまち)について説明します。今は汐入の高層マンションや石浜神社、白髭橋がある辺りです。

この辺りの広域地名は古くは石浜といい、 中世以前の地名で小塚原、素盞雄神社と並ぶ歴史のある地域です。江戸方面から東北地方への幹線道路として江戸時代に日光街道が通じていましたが、江戸時代以前の奥州街道は白髭橋の辺りを渡し船で渡っていました。
交通の要衝だったこの地には石浜城というお城がありました。江戸時代以前の隅田川の対岸は下総国でした。房総半島で勢力を回復した源頼朝が鎌倉を目指して軍を進め、隅田川を越えて武蔵国に入ったのがこの辺りであったと言います。
源頼朝に立ちはだかった石浜城の江戸氏は、最終的には頼朝に降り鎌倉政権下に組み込まれていきます。鎌倉、室町時代には江戸氏の一族が城主をしていたといいます。

戦国時代には下総国千葉氏の内紛によって逃れてきた千葉氏一族が石浜城に拠って武蔵千葉氏として小田原北条氏に属していましたが、豊臣秀吉の小田原征伐によって廃城となりました。大きくこの辺りは石浜と呼ばれたが、村名は橋場村と呼ばれていました。現在の南千住3,8丁目と台東区橋場、清川の辺りが村の範囲です。
いま明治通りがちょうど荒川区と台東区の区境になっていますが、江戸時代は当然明治通りは無く、思川という川が流れていました。この川を境に台東区側の橋場は町方に含まれ橋場町となり、荒川区側は農村部の橋場町地方となりました。橋場町地方のほぼ全域が荒川区となり、橋場町は台東区になったのですが、元々は一つの橋場町だったのです。

明治に入ってから橋場町は東京市浅草区橋場町に、橋場町地方は北豊島郡地方橋場村になりました。従って石浜神社の氏子町域は荒川区、台東区にまたがっています。この橋場は江戸から明治にかけては風光明媚なところで実業家や政治家の別荘が並び、有名な料亭が並ぶ場所でした。日暮里の低地から根岸にかけての地域が風光明媚で別邸が多く立ち並んでいたのと同じですね。

現在の汐入などのイメージから歴史の浅い場所のように思われがちですが、石浜神社は素盞雄神社と同じく1200年以上の歴史があり、古の奥州街道の要衝であったように歴史のある土地柄でもあるのです。

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南千住地域紹介、歴史編、前編はいかがでしたか?
後編では、更に明治〜昭和にかけての歴史などを紹介します。ご期待ください。

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