生粋の東京の人間を「江戸っ子」と呼びますが、果たして我々、荒川区民は江戸っ子なのか検証してみたいと思います。
東京23区に生まれた人が全て「江戸っ子」かというと、そういうわけではなく、葛飾柴又生まれの江戸っ子とか、渋谷生まれの江戸っ子とか、世田谷生まれの江戸っ子とかちょっと違和感があります。
まずは江戸の範囲について考えてみましょう。
そもそも江戸のルーツはどこにあるのでしょう?諸説ありますが、江戸の地名の由来を紐解いていくと、江は川を意味しています。戸は入口を意味し、川の入口、河口を意味しているという説が有力です。
東京にはかつて多くの川が流れていました。徳川家康が江戸に入って治水のために川の流れを多く変えていきました。
いま都心を流れる川には神田川、日本橋川という川があると思います。徳川家康が江戸に入ったことによって二つに分けられましたが、元々は一つの川で「平川」という川でした。皇居、江戸城には平川門という門があると思いますが平川から名づけられています。
この平川(神田川、日本橋川)の河口に開けた集落が、元々の江戸でした。同じように隅田川の河口に開けた町が浅草であり、目黒川の河口に開けた町が品川であって、江戸から東京が拡大する過程で江戸や東京の一部になりましたが、江戸も浅草も品川もルーツは別の街でありました。
現在の神田川と日本橋川
徳川家康が江戸に入ったころは東京駅のあるあたりはずっと内海が入り込んでいて、江戸城は海に面したお城だったのです。大手町辺りで平川が海に流れ込んでいたので、その辺りが江戸のルーツになります。
桓武平氏である秩父氏の一族が江戸に居館を築いて江戸氏を名乗り、室町時代にはその居館があった場所に太田道灌が江戸城を築きました。よく、徳川家康の功績を過大に讃えるために田舎のみすぼらしい城だったかのように言われますが、平川の河港で物資の集合地でもあった江戸は重要拠点であったので太田道灌が城を築いたのでしょう。戦国時代は北条氏のもとにあって房総(隅田川の向こうはすぐに下総国だった)の雄、里見氏に対する最前線の軍事拠点でした。
徳川家康が江戸に入り天下人となると、江戸は天下の城下町として大いに栄え人口も爆発的に増えて街は拡大していきます。周辺地域もどんどん江戸に飲み込まれていきました
江戸が拡大する一方で様々な問題も起きてきます。
江戸はどこからどこまでという決まりがなかったので、江戸の範囲の解釈がまちまちになってしまっていました。
江戸時代は町は町奉行が支配し、お寺や神社は寺社奉行が支配し、武家地は大目付が支配するという法律系統の違いがありました。しかし江戸の範囲がまちまちだと法律の解釈の問題など様々な問題を抱えてしまいます。それまでの江戸の範囲の解釈だと、
- 町奉行が支配する範囲内を江戸とする
- 寺社を建立するのに寄付を募ることを許可された範囲を江戸とする
- 法を犯した者が江戸払いとして立ち入り禁止になった範囲
- 尋ね人の特徴などを記した高札によって掲示した範囲
- 旗本、御家人が外出を届ける際、江戸城御曲輪から四里以内の範囲を江戸とした
- 「本郷もかねやすまでが江戸の内」と言われた。これは本郷までは市街地なので防火のために瓦葺きを義務付けられていた。本郷より先は藁ぶき屋根の建物でもよかった。
など、様々な解釈があって統一見解が求められました。
評定所で入念な評議の結果、朱引き、墨引きが制定されました。地図上に赤いラインで囲まれた地域を朱引きと言い、黒いラインで囲まれた地域を墨引きと言いました。
朱引きは東は中川、北は石神井川下流、西は神田上水、南は目黒川の範囲を江戸の範囲であると定めました。これは寺社奉行が管轄する寺社勧化場(寺社を建立するのに寄付を募ることを許可された範囲)や札懸場で高札が明示する範囲に相当します。
この広い範囲が全て市街地かというとそういうわけでもなく、農村部も含まれています。江戸市街地を示すというよりは、今でいう首都圏とか、東京都とかそういった広い意味を込めた範囲なのでしょうね。町奉行の管轄範囲を示すものとして墨引きも制定されました。こちらが江戸の市街地を示すものとしては妥当なものなのでしょうね。
この江戸市街地に住む者こそ、江戸の都市住民である江戸っ子と言えるのだと考えます。それでは現在の荒川区域はどうなっていたでしょう?
江戸時代の荒川区域はいくつかの村に分かれていました。三河島村、新堀村、谷中本村、金杉村、町屋村、上尾久村、下尾久村、船方村、小塚原村、千住南宿、地方橋場村、三ノ輪村、通新町が荒川区域でした。この地域が江戸であったのか、住民は江戸であったのか?続きは次回に書こうと思います。