桜が散ったと思ったらあっという間に暑くなってきました。
荒川区の風物詩と言えば桜の後にバラの季節がやってきてお祭りが続きます。江戸の三大祭とも呼ぶべき神田、三社、山王もこの季節。荒川区では元三島神社、石浜神社、胡録神社、素盞雄神社と例大祭が続きます。
今月は連載の町屋紹介の記事を書こうと思っていたのですが、素盞雄神社の天王祭が3年に一度の本祭りなので天王祭について基礎から書いてみたいと思い立ちました。
素盞雄神社が地元の人になぜ「お天王様」と呼ばれ、お祭りが「天王祭」と呼ばれるのでしょう?その歴史から紐解いていきます。
素盞雄神社ができたのは?
平安時代の794年に黒珍という人によって創建されました。794年というと桓武天皇が平安京に遷都した年です。今から1221年も前の出来事です。修験道(山に入って厳しい修行をする山岳信仰と仏教が混合したもの。修行をする人を山伏という)の創始者である役小角(えんのおづぬ)の弟子であった黒珍(こくちん)という方が、この地にあった小高い塚の上にある奇岩にスサノオ大神とアスカ大神の二人の神様が現れたということで、二人の神様を祀ったお社を作ったのが始まりです
この神様が降臨した塚こそが小塚(古塚)で小塚原(こづかっぱら)という地名になりました。コツ通りのコツの由来でもあります。今では南千住という地名になっていますが、もともとの地名は小塚原です。この小塚にあった奇岩(珍しい石)に神様が降臨したので、瑞光石と呼ばれます。南千住地区の小学校の名前に「瑞光」とつくのは、この故事に因んでいるのです。
祀られている神様は スサノオ大神とはイザナミ、イザナギ夫妻の末子で皇祖神天照大神の弟にあたる素戔男尊(スサノオノミコト)を指しています。神々が住む高天原では粗暴な行為によって、姉であるアマテラスが天岩戸に隠れてしまうというような行為があって高天原から追放された。出雲国ではヤマタノオロチを退治して、そこから出てきた宝剣をアマテラスに献上し、それが皇室の三種の神器の一つ、草薙の剣になったという。荒ぶる神様として知られて、罪・穢・災・厄など身に降りかかる悪しきこと諸々を、荒ぶる強い力で祓い清める災厄除けの神様と言われています。
アスカ大神とは事代主命(ことしろぬしのみこと)の別名です。スサノオの子孫で、大国主命の子供。高天原のアマテラスに統治していた出雲国を譲ったという国譲り神話に出てくる神様です。娘が神武天皇の皇后であり、神武天皇の舅であったとも言われています。
神仏習合
柏手を打つのは神社だっけ、お寺だったっけ?と悩む人も見かけたりしますが、明治以前の日本は仏様も神様もごちゃまぜにして祀っていました。もともと日本にあった日本の神様を祀ってきたのですが後に仏教が伝来し、深く信仰されるようになってくると。神様と仏様は実は一緒なんだよということにされて行きます。神社とお寺が同居していてどっちがどっちだかわからないような状態だったものを、明治時代に入ってから神道を国教のように扱い、神社とお寺を厳格に分け現在のような形になっていきました。明治以前は神様と仏様が同義とされていたので、スサノオ大神は災厄除けのインドの神様で仏教に取り込まれた牛頭天王と同一とされた。スサノオ=牛頭天王なので、天王社、お天王様、天王祭なのですね。江戸でコレラが流行すると疫除守を求めて江戸市民が殺到したといいます。
アスカ大神=事代主は中国、インド由来の神様えびす様と同一とされました。事代主が国譲りの使者を迎えたときに釣りをしていたことから、漁業の神でもあったえびすさんと結びつきました。えびすさんが大鯛を小脇に抱え釣竿を持っているのは、国譲り神話における事代主が由来となっているとも言われています。
もともとの神社の境内にはスサノオ大神を祀る神殿と、アスカ大神を祀る神殿が別々にあったのだが、江戸時代の1718年に火事で神殿が焼けたのを機に、今は二人の神様が一つの社殿に祀られています。明治時代までは飛鳥社小塚原天王宮と呼ばれていて、明治に入ってから神仏分離となって素盞雄神社と改称したようです。今でも6月3日に天王祭、9月15日に飛鳥祭が行われています。飛鳥祭では湯立神事が行われます
天王祭について
天王祭は毎年6月3日に、神輿の渡御は第1週の週末に行われています。なぜ6月なのでしょう?牛頭天王(スサノオ)を祀る京都の祇園祭と同様に、夏に流行する疫病を振り祓うためのお祭りと言われます。
今年は6月2日に宵宮、6月3日に例大祭で、六十一ヶ町総代、氏子崇敬者の参列のもと、厳粛な祭儀が執り行われます。参列者は半紙で包んだ胡瓜を奉納します。これは胡瓜を輪切りにした模様が御祭神の御紋に見え恐れ多いために、その年の初物の胡瓜を先ず御神前に奉納してから自分たちが食する、という伝統を継承したものです。6月6日に神輿の宮出し、6月7日に宮入りになります。
天王祭2015年ルート。
素盞雄神社は南千住(旧小塚原町、三ノ輪町、通新町)台東区三ノ輪(旧三ノ輪町)荒川(旧三河島町 旧三河島町域で現在東日暮里1、2丁目だった一部の地域を含む 正庭、二ノ坪など)町屋(旧町屋村 江川堀以南)の61ケ町が氏子町域という荒川区で最も大きな地域にまたがっているお祭りです。
室町時代の天文10(1541)年に大洪水があり、その際に流れてきた大神輿を町屋村の杢衛門という人が得て、素盞雄神社に奉納したという故事により、町屋の人が宮出しをするという習わしになっています。1541年というと戦国時代ともいわれ、武田信玄が父の信虎を追放して戦国大名デビューした年でもあります。町屋村の杢衛門さんは町屋の旧家佐久間家の先祖とも言われています。また町屋村の住人のルーツは南千住の若宮八幡宮あたりの住民が移住したという伝説もあり、その辺に宮出しは町屋のルーツもあるのかもしれませんね。
6月6日(土)7時に素盞雄神社を出たお神輿は千住間道や焼場の通りを通って町屋に至り、18時に原稲荷到着し一晩を明かします。翌7日(日)には8時に原稲荷を出て町屋、三河島、三ノ輪と各町内を巡ります。15時頃に大関横丁を通って、コツ通りから19時に宮入します。今年は3年に一度の本祭り。本社神輿が勇壮に街を闊歩します。稚児行列なども同行するので見どころが多いのです。
圧倒的な激しさを誇る、勇壮な神輿振り。そして壮麗な山車。
素盞雄神社の神輿振りは有名です。
普通のお神輿は担ぎ棒が井桁に組んでありますが、素盞雄神社の神輿は二天棒と呼ばれ、二本の棒があるのみなので左右に激しく降ることが可能なのです。なぜ担ぎ棒が二天棒になり、神輿を激しく振るようになったのでしょう?
素盞雄神社の町域は道が狭いので、狭い道でも神輿を進めていけるように二天棒になったという説もあります。荒川区民は二天棒は素盞雄神社だけと言ったりもするのですが、他にも二天棒の神輿を担ぐところはあって、その多くはスサノオを祭神としているところが多いのです。スサノオが荒ぶる神ということで神輿を左右に揺らしてそれを再現しているのではないかと思われます。素盞雄神社の特徴は左右に振る神輿振りの激しさが群を抜いていて他よりも激しいのです。本社神輿の千貫神輿を左右に振る様は他には見られません。その勇壮な様は地域の誇りとして受け継がれています。天王祭をまだ見たことが無い人は絶対に見るべきだと思います
江戸の頃は千住大橋で綱引きが行われたり、山車も神輿に負けず劣らず隆盛で、現在も三河島に伝わっています。
山車人形は「壱番 熊坂長範(くまさかちょうはん)」「弐番 素盞雄命(すさのおのみこと)」「参番 稲田姫(いなだひめ)」の三体があったそうですが、素盞雄命は戦災で失われてしまいました。明治以降の市街地化で電線が張り巡らされるなど、大きな山車巡行はできなくなってしまい、神輿が主流となっていきます。天王祭では勇壮な神輿と壮麗な山車がお祭りを盛り上げていきます。江戸末期に作られた山車人形もこの時に見ることができると思います。熊坂長範は源義経に討たれた大盗賊で、義賊として歌舞伎などに取り上げられた人物です。荒川中央町会に山車が伝わっています。稲田姫はヤマタノオロチの生贄にされそうになっていた美少女で、スサノオがヤマタノオロチを退治し稲田姫を妻として娶り、多くの子宝に恵まれ幸せに暮らしたと伝わっています。荒川文化会・荒川宮地町会・荒川四丁目西仲睦会・大西町会の氏子中により、天王祭において毎年町内お神酒所に飾られています。また本祭りでは境内の神楽殿に飾られます。
まだまだ書きたいことはたくさんあるのですが、実際に行って見て下さい。日本の文化、地域の文化を感じ、地域への誇りが伝わってくると思いますので。インターネットで写真や動画を見ることもできるのですが、やはり生で見るのとでは全く迫力が違います。3年に一度のチャンスなのでぜひ足を運んで見て下さい。
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