「あらいらっしゃい」
神田駅を出てすぐの高架下、背の低い引き戸をがらりと開くと以津子さんの柔らかい声が聞こえた。「何飲む?ビールは好きで すか?」おっとりしている。想像の半分ぐらいの速度で、焦ることなくゆっくりと話す。まさかこんなところで職人の方に会えるとは思いもよらなかった。
手描き友禅を生業とする笠原以津子さんは横浜の出身。「とにかく坂ばっかりでね。平坦な街に住みたかったの」。故郷の坂が恋しくないですかと尋ねると、坂道が少ないのが荒川区の好きなところ、と言って以津子さんは笑う。
職人の家系ではない。父はごく普通のサラリーマンだった。ところが母は「手に職をつけたほうがいい」と幼い以津子さんに教えた。昔から着物が好きだった以津子さんが友禅の道を志すのは自然なことだった。
大手アパレルブランドに就職したのもつかの間、23歳のとき新聞で見た「弟子募集」の記事に目が止まり迷わず応募した。「先生の作品を見た瞬間 ね、これだ!これが私の生涯の仕事だわ、って」。その気持ちは先生にも伝わったのか、「一番若くてやる気がありそう」と合格。応募総数30名のうち合格者 はたった1名だった。
先生のもとに通い詰め修行を重ねた以津子さんだったが、友禅の世界を知れば知るほど「私だったら違った描き方をするのに」という感情が芽生えてきた。もっと自分の世界を広げてみたい、そう思った以津子さんは入門して約7年、独立して自分の道を進むことを決める。
以津子さんは作家としてアトリエで制作を行うだけでなく、外の世界との縁を大切にしている。以前取材を受けた女職人の記事がきっかけとなり、カルチャーセンターの講師依頼が舞い込むようになった。手描き友禅の入門講座は盛況で、今も週に何度かは関東近郊を飛び回る。
今夏はエージェントの誘いでジャパン・エキスポに初参加、自身の作品とともにフランス・パリへ渡った。
「フランスは何から何までおしゃれね!若い方だけじゃなくてお年寄りも。みんな鮮やかな色柄が好きみたい。あとヨーロッパは雑貨屋さんに飛び込 みで『これ置いてください』なんて行っても門前払いされちゃうの。どこから来て何をしている人か書類を提出しないといけないんだって。意外よねえ」
ジャパン・エキスポでの出来事を語る以津子さんの瞳は活き活きと輝いていた。初めての渡仏体験は、30年のキャリアを持つ以津子さんにも新鮮な刺激を与えたようだ。
「そうそう、来年はイギリスに行くかもしれないの」
フランスの話から派生して、以津子さんがまた新しい話を始めた。イギリスのイベントから声が掛かっているという。イギリスはかつて両親が住んでいた土地。縁に導かれるかのような誘いに、以津子さんは何を描いて持って行こうかと今からすっかり乗り気だ。
「フランス、イギリスって凄いね。楽しみだね。でもそんな飛び回っていたら月曜翠に来れなくなってしまうのでは?それだけが心配だよ。」とのお客さんの声に「大丈夫、月曜だけは来ますから。何せ私の憩いの場でもあるので」と微笑んだ。
思えば不思議なものだ。趣味の社交ダンスで知り合った友人に連れられてふらりと訪ねた居酒屋「翠」で、今はこうして週に1日女将をしている。様々な縁に助けられ自身の道を切り拓いてきた笠原さんが、今は人と人をつなぎ縁を生み出す側に回っている。
今後やってみたいことはありますか、と訪ねると以津子さんは相変わらずの柔らかい語り口で「んー、なるようになるんじゃないかな」。縁を愛し縁に愛されて生きてきた以津子さんらしい言葉だと思った。軽やかにしなやかに、国内外を羽ばたく姿が目に浮かぶようだった。