地域紹介「三河島」三河島ってディープなの?

荒川区を構成する地域は5つあります。三河島(荒川)、日暮里、南千住、町屋、尾久なのですが、これらの地域を一つずつ、特徴や良い所を紹介していきたいと考えています。

今回は三河島を取り上げようと思います。JR常磐線に三河島駅はありますが、住居表示には三河島はありません。現在の荒川区荒川が、旧三河島町域になります。

三河島 #1





三河島の歴史

 

地名の由来と三河島菜

 

三河島の地名の由来は諸説あります。

3つの川に挟まれた島のような地形だったからという地形説。太田道灌とも知己である木戸三河守という豪族がいたからという人名説。もう一つは徳川家康が三河から連れてきた家臣が住んだからという説もありますが、家康が三河からやって来る前の戦国時代に既に三河島の地名が確認出来るので、この説は怪しいです。地形説が最も妥当なように思えます。

三河島とは江戸時代以前からある由緒ある地名なのです。

江戸時代の三河島は江戸近郊の農村地帯でした。江戸伝統野菜の三河島菜の産地でだったのです。

三河島菜?なんじゃそりゃ??と思う人も多いと思いますが、江戸では有名な浸け菜でありました。

 

三河島菜 三河島
三河島菜

現代のように冷凍、冷蔵技術が発達しておらず、ビニールハウス栽培などありませんから冬のビタミン、タンパク源を得る為に当時は漬け物を食べていました。江戸市民が漬け菜として食べていたのが三河島菜で、ポピュラーな野菜でありました。

江戸時代の三河島は江戸近郊農村で三河島菜の産地であったり、将軍家や有力大名の庭園を手入れするような植木師の邸宅、庭園があったり、将軍が鶴を狩るための鷹狩り(鶴御成、軍事演習でもある) を行うような場所でもありました。

鶴御成でやって来た将軍が休息を取り、その御膳に供されるのが三河島菜でした。江戸庶民も将軍様も食べたのです

漬け物や味噌汁に入れるなど万能な野菜としては白菜がありますが、白菜は明治時代になるまで日本には入ってこなかった外来野菜で、三河島菜が江戸の人にとってはポピュラーな野菜でした。

しかし、外来品種の野菜がドンドン入ってくると、栽培が難しく、大きくて流通に不利な三河島菜は競争に破れ、栽培されなくなってゆきます。そして荒川区域が市街地化することによって三河島菜は幻の野菜となってしまいました。近年、三河島菜が復活しています。

 

「峡田」に見られる地域の誇り

 

三河島を表す言葉で「峡田」という名前があります。荒川区の大部分は将軍家の菩提寺寛永寺の治める土地で、峡田領と呼ばれていました。三河島の住民は将軍家につながる寛永寺領であることを誇りに思っていました。

実際に、明治維新の上野山戦争では寛永寺の住職である輪王寺宮は峡田領を目指して落ち延びてきました。

現在、三河島、町屋地区の小学校名に峡田が冠されているのはこの地域の人達が峡田領に誇りを持っていた証です。三河島、町屋地区の小学校の校章には三河島菜があしらわれています

 

都市と農村の境界にあった荒川区域の使命とは

 

荒川区域は江戸という都市と農村との境界で都市の周縁部と言うことで、特殊な位置付けにありました。拡張していく都市の様々なものを受け入れながら変化していくという使命を背負うことになります。市街地の真ん中には置けないが、市街地に近い所に置いておく必要があるものを受け入れていかなくてはならなかったのが荒川区域の使命となりました。

江戸は帝都東京として膨張していきます。近代化を推し進める東京には近代的な下水処理施設が必要となります。

東京市街地から遠からず、広い土地のあった三河島に日本初の近代下水処理施設が建設されたのでした。この建物は現在の三河島水再生センターに継承され国の重要文化財に指定されています。

 

皮革産業が盛んに

 

東京市の近代化に伴って市街地から追い出されてきたものに皮革産業があります。動物の皮を加工する工程において独特の臭いを発する事が嫌われるなどあって墨田区の木下川(きねがわ)と三河島に移転させられました。ピッグスキンにおいては日本有数の生産地となりました。

東京市域が拡大することによって、都市と農村部の周縁だった荒川区域も東京市に飲み込まれていきます。都市の拡大はとどまることを知らず、地方から多くの人が流入し、また震災などで移住する人など荒川区にも多くの人がなだれ込むことによって、過密集住地域が出来て不良住宅が増え住環境が悪化した時期もありました。

やがて荒川区は周縁ではなく東京市域になり、新たな周縁を求めて皮革産業の多くは荒川区を出ていったので、現在は数軒を残すのみとなっています

 

戦前からの歴史あるコリアンタウンでもある三河島

 

三河島には朝鮮半島出身の人も多く住んでいます。済州島出身の方で成功した方が三河島辺りにいらしたようで、親族、縁者と済州島出身者を中心にコリアタウンを形成したようです。

大久保などは戦後からコリアタウンになった所ですが、三河島は戦前からの歴史のあるコリアタウンです。日本人と在日の方が隣り合わせに背を向けながら生きてきたような時期もありましたが、現在は両者の関係が近くなってきているようにも思えます。

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三河島事故

 

三河島の歴史で特筆すべきは、日本の鉄道史上最大の事故が起きた地であることです。三河島事故です。

昭和37年5月3日21:37分。ダイヤが乱れ、三河島駅構内で停止信号を行き過ぎてしまった貨物列車が脱線し、本線上に飛び出しました。そこへ、取手行普通列車が衝突してさらに脱線。線路へ多くの人が脱出したが、今度はそこに上り列車が突っ込みます。この上り列車は多くの人をはねた上に脱線した列車に衝突。車両はそのまま高架下に落下しました。

結果、死者160名、負傷者296名を出す大惨事となりました。

三河島事故
三河島事故

 

町名が三河島から荒川に変更に

 

東京発展の恩恵も弊害も受けてきた三河島ですが、昭和43年に歴史ある地名である「三河島」から「荒川」に変更されることになりました。なぜ、そうなったのかははっきりしていません。

荒川区役所、荒川警察署、荒川消防署・・・・・荒川区の官公署が集まる荒川区の中心的地域なので「荒川」に改称したとか、大惨事の三河島事故や、住宅過密集住地域でイメージが悪くなったので、それを払拭するために変更をしたという説もあります。現在は行政地名に三河島はなく、駅名と町会名等に残るのみとなっています。

 

三河島に設置された初代荒川区役所
三河島に設置された初代荒川区役所

三河島オススメポイント

 

①区の施設が集中していて便利

 

三河島には区役所を始め、警察署、消防署、区民会館、エコセンター、生涯学習センターなど、区の官公署や施設が集中していて便利です。荒川区の中央図書館たる荒川図書館は吉村昭記念文学館を併設する予定で、新たに建設中です。サンパール荒川は区民会館、区民ホール、会議室やなどを区民が借りることができます。私が通う荒川コミュニティカレッジもここにあります。

サンパール荒川
サンパール荒川

 

 

②本場さながらの韓国料理が味わえる

 

三河島の特徴としてはコリアタウンということ。美味しい本場ながらの韓国料理が味わえます。本場仕込みの美味しいキムチも購入できます。焼肉屋さんもあちこちにありますが、ただの焼肉ではなく、韓国料理を味わい異国気分を感じるのも良いでしょう。済州島の料理も興味が惹かれますね。

 

③三河島稲荷など数多くの社寺

 

三河島稲荷は古より三河島を見守ってきました。いま交差点の名前に残っている「宮地」はこの三河島稲荷に由来するものです。宮地交差点は昔はロータリーだったそうです。

観音寺、法界寺は将軍の鶴御成の際の御膳所で休息する将軍に供されたのが三河島菜です。江戸時代以前の板碑の伝わる浄正寺、情愛悲話の伝わる袈裟塚耳無不動、太田道灌の山吹の里伝説の一つである泊船軒など歴史ある社寺が多くあります

 

④幻の三河島菜

 

話題に上がった三河島菜ですが、昭和の初めには「あいつとあいつは三河島の菜だよ」なんて言葉が使われていたそうです。三河島菜は良い菜漬けになることから、「いい菜漬け」と「許嫁 いいなずけ」をかけた洒落言葉があって、昭和9(1934)年の大辞典(平凡社)にも記載されているほどポピュラーだったのですが、幻の野菜となってしまいました。しかし、近年は復活の機会を得て農地のない荒川区では学校の校庭やマンションのベランダなどでも栽培されるようになり、小平市や他県の農地で栽培されています。いつか口にする機会もあるでしょう。

 

⑤日本最古の近代下水処理施設「三河島水再生センター」

 

三河島水再生センターは日本で初めて造られた近代下水処理施設。現存する旧三河島汚水処分場喞筒場施設 ( きゅうみかわじまおすいしょぶんじょうぽんぷじょうしせつ)は、大正11年に建設された当時の姿をとどめ国の重要文化財に指定されています。

普段は入場できませんが桜の咲く時期には一般開放されるので、花見がてら歴史ある建造物見学も良いでしょう。

 

⑥荒川自然公園

 

町屋駅に近いのですが荒川自然公園も旧三河島です。下水処理施設の上に蓋をして造られた公園なのですが、いろいろと遊べます。

野球場やテニスコートもあり、夏場は子供が遊べる無料のプールもあります。交通園では子供が自転車を練習したり交通ルールを学ぶことができます。池には白鳥がいたり、季節によってはカブトムシ、オオムラサキ、ホタルと触れ合うこともできます。区役所前の荒川公園は花見の名所です

荒川自然公園
荒川自然公園

 

 

⑦大盛りのお店や洋菓子の名店なども

 

三河島には大盛りのお店、美味しい和菓子、洋菓子のお店もたくさんあります。ここではその一部をご紹介しましょう。

 

  • 光栄軒

三河島 光栄軒

写真はお店名物の大盛りチャーハン。男の人に大人気。お昼時にはいつも行列ができています。

 

  • 苺屋

三河島 苺屋

こちらは三河島駅すぐ横の洋菓子店「苺屋」。苺ロールがおいしいですね。

 

私は三河島に家を建てて4年目になりますが、治安も良いし住みよい街です。私はこの土地で生涯を過ごすでしょうし、子供達も三河島で育っていきます。この土地の伝統や誇りを次の世代に伝えていきたいと思っています。地域への愛情や誇りを育んで新しいイメージを作り出していきたいと思っています。荒川区LOVEで三河島が大好きです。

次号は荒川区の玄関口ともいえる日暮里を紹介したいと思います。

2件のコメント


  1. 私は、ここ20年以上フランスに住んでいる者ですが、三河島で生まれて育ったものです。 書かれてあることが偏見もなく良く書かれてあるのでうれしく思っています。 でも、私の小さかった1960年代の三河島には、、、、色々なことがありましたよ。全共闘の隠れ家だったり… 朝鮮高校の不良が地域を統括していて日本学校の生徒に脅しをかけ、地域を統括するような… ま、いいか。 私は、日本国籍をもつ…もう日本に住んでいないから「在日」と言えるのか分かりませんが、父が韓国人だったものです。 ま、あの時代、三河島、日暮里界隈では日本人と韓国人が「自分達は違う」という空気で生活していたような気がありましたが、いま60代になる私達の世代に、「国」という感覚は殆どなく、日本に一時帰国して旧友と集うと、「三河島の同胞」という温かさの中に包まれ、一種の解放感を感じます。  

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  2. 前略、現在 山形県山形市在住の者です。 私の先祖の足跡を探していたところ、こちらのサイトを見つけ、大変参考になりました。 曽祖父は長野から荒川に移住して、祖父も日暮里に住んでいた事は戸籍から伺えましたが、都内の地理は全くわからず、地図を眺めながら、住所の特定をしていました。
    と云うのも、関東大震災や戦争にて資料が少なく、本人も存命していない事から難航していましたが、
    大変興味深い内容に感謝しています。

    返信

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