シリーズ「荒川区のオキテ」③:荒川区に荒川は無い

シリーズ「荒川区のオキテ」、第3回目です。

前回は荒川区の場所について書きました。

「荒川」という名前がついているので、「荒川放水路」の向こう側の遠い場所にあるのではないかと思われてしまうことを書きました。でも、区内には「荒川」は流れてないし、山手線の駅もあるのは意外に知られていないんですね。

23区の区名を挙げていくと、渋谷区、新宿区などはすぐに出てきますが、荒川区は最後まで出てこなかったりする。地方から来た人などには「荒川区なんてあったっけ?」と言われてしまう。

何と印象が薄いんでしょう(^^;

ところが、「日暮里」「南千住」といった個別の地名を言うと、「あぁ知ってる」なんて言われたりします。日暮里、南千住といった駅名にもある地名だと場所を把握しやすいけど、荒川区という抽象的な地名では場所を把握しづらく、印象に残りづらいんでしょうか。

 

むかしは荒川と隅田川は同じ川でした

 

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荒川区内を流れる大河は隅田川です。荒川は足立区内を流れています。よく混同されますが、荒川区内に荒川が流れてないのに何で荒川区なのでしょう?

それは元々、荒川も隅田川も同じ川だったからです。荒川の下流域の別称を隅田川と呼んでいたので荒川も隅田川も同じ川だったのです。

明治になると帝都東京を水害から守るための放水路建設が計画されます。これが荒川放水路で現在の「荒川本流」になります。

難工事の末、大正13年に人工河川の荒川放水路が完成すると、それまでは荒川=隅田川でしたが、北区の岩淵水門で荒川と隅田川が分けられるようになりました。荒川放水路と隅田川が別の川となったのです。しかし、古来、千住大橋までは荒川、それより下流を隅田川と呼んでいたので、慣習的にもそれまで同様、千住大橋より上流は「荒川」と呼ばれ続けます。

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国土交通省の荒川下流河川事務所「荒川放水路 建設からの100年」。

 

どうして「隅田川区」じゃないの?

 

昭和7年に北豊島郡の4町が合併した時に地域のシンボル「荒川」の名を取って「荒川区」が発足しました。

更に、昭和40年に河川法が改正され、「荒川放水路」が荒川本流と定められ、隅田川は荒川支流として岩淵水門から下流全域を「隅田川」とすることになりました。これにより、荒川区内からは「荒川」の表記が消え、全て「隅田川」に改められました。

こうした経緯があるので荒川区には荒川が流れていないのですね。これで、隅田川が流れているのに隅田川区ではなく、荒川区になった理由がお分かりいただけたでしょうか?
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隅田川区に変更するのも良いかもしれませんが、隅田川という呼称にこだわりを持つ墨田、台東、中央、江東区に反対されそうです。歴史的にも荒川区で良いのかもしれませんね(荒川区内にある巨大な貨物ターミナルは昔から隅田川駅ですが)。

ちなみに、区名を決めるとき、区役所が置かれた場所が三河島だったことから「三河島区」案も有力だったそうです。抽象的な名称よりはこちらのほうが良かったかもしれませんが、現在は三河島の地名が逆に消えてしまっています。

 

荒川の恩恵を受け、江戸野菜の産地だった荒川区

 

荒川区の町々は荒川の恩恵を大きく受けていると思います。

荒川区域は江戸野菜の産地でした。汐入大根、荒木田大根、町屋枝豆、三河島菜、谷中生姜。野菜の栽培に適した豊饒な土を荒川はもたらしていました。

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現在、復活に向けた活動が盛んに行われている伝統野菜、三河島菜。
(参考:「復活!あらかわの伝統野菜だより 第6号」

また、今では廃れてしまいましたが、高層マンション立ち並ぶ汐入は胡粉の産地でした。日本画や日本人形の顔料に使われた良質な胡粉の原料が産出したことは、荒川に面した立地条件があったからでしょうね。

荒川区に明治以降、近代産業の大工場が進出したのも荒川があったからでしょう。大量の工業用水の取得や、生産品を船で大量輸送できた立地条件などにより、日本の羊毛工業、板紙生産の発祥地となり、日本最初の近代下水処理施設も造られました。

また盛んであった煉瓦産業も、荒川の水、荒川がもたらした土が影響しているのでしょう(赤土小、旧真土小など学校名に赤土や良質の土が取れたことを示す地名の名残が残されています)。

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舎人ライナー、赤土小学校前駅

 

荒川に面してはいないけど荒川抜きには語れない荒川区

 

やはり荒川区は「荒川」の大きな恩恵を受け、「荒川」の水害とも戦い、「荒川」抜きにしては語れない部分はあるのではないでしょうか? 荒川区の名を語り継ぐことは荒川区の歴史を語り継ぐことと同じなのかもしれませんね 。

余談ですが、いまお話しした「荒川」ですが、徳川家康が関東に来る前は入間川で、隅田川も別な川だったのです。

なんて書いていくと、ただでさえややこしいのに、更にややこしくなると思いますので別な機会に書こうと思います。

「荒川」と「隅田川」の違いを語れることが、今回の荒川区のオキテです。

次回は荒川区を構成する4つの地域についてお話しようと思います

2件のコメント


  1. <昭和40年に河川法が改正され、「荒川放水路」が荒川本流…………荒川区内からは「荒川」の表記が消え、全て「隅田川」に改められました。>
    とありますが河川法的にはそうであっても、実際には赤土小では少なくとも昭和44年くらい迄、授業で使っていた地図にも荒川区の脇に荒川は流れていました。「荒川放水路」表記が無くなり「荒川」に名前が変わるまでにはたぶん10年かそれ以上はかかったのでは無いかと思います。私が「荒川放水路」という呼び方が無くなったの気づいたのは河川法改正から20年以上経ってからです。

    返信

    1. 趣旨は荒川と隅田川が法的に明確に分けられたということを伝えるための表現であって、古い表記がずっと残っていたことや、呼び名についても存じております。私は今でも「荒川放水路」と呼んでます。その呼び方を古いと指摘された時は驚きました。放水路として造られたのですから、荒川本流になっても荒川放水路と呼んでもおかしくはないのですから。趣旨的には呼び名はどうであれ荒川が隅田川になったのは昭和40年ということを知ってもらうための表記です。今後は古代からの隅田川などの記事も書く予定でおります

      返信

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